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結婚なんかいたしません! 出戻り侯爵閣下は秀才令嬢を落としたい

悠月彩香 / 著
鈴ノ助 / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2024/10/25

電子配信書店

  • piccoma

内容紹介

俺を頼って甘えてくれればいいのに
「好きなんだ。初めて会った日からずっと」大の学問好きな令嬢エメネージュは貴族の身分を隠し、市井で孤児たちに学問を教えていた。ある日新入り生徒の青年リヒトに口説かれて!? 彼を拒絶するエメだったが、特異な自分を認めてくれ暴漢や理不尽な貴族から助けてくれるリヒトに惹かれるも、いきなりキスされて!? 驚いて彼から逃げ出したのに――「まさかこんなところで君に会えるなんて思ってもみなかったよ!」王城の舞踏会で助けてくれたのは王国騎士の制服を身にまとったリヒトその人で!? 不同意のキスはお断りです! そう思ってたのに……「好きだ。君も俺を好きになって」熱い眼差しに抗えなくて――。ワケあり侯爵×生まじめ令嬢の溺愛包囲網!

立ち読み

序章


 赤色、水色、黄色、黄金、緑色――。
 言葉にすると単純な一(ひと)括(くく)りになってしまうが、同じ系統の色でも濃淡明暗、様々な色が存在している。
 それらの華やかな彩が、目の前で入り乱れる様子を興味深く眺めるエメネージュは、壁に咲く一輪の淡い水色だ。
 ここルミネリエ王国の王都ヴァビナでは、毎夜のようにどこかの邸(やしき)で夜会や舞踏会が開催されており、社交という名の駆け引きが至る場所で行われている。
 日常の光景だが、エメネージュにとってはあまり馴染みのない世界であり、できればあまり近づきたくない場でもあった。
 今夜は有力な伯爵家からの招待で、父親の厳命により出席を強制されてしまったので、渋々ながら壁を飾りに来た。
 広間を見回せば、あまり見たことのない顔ぶれが多い。伯爵、侯爵、中には公爵位を持つ貴族まで出席しているというから、そんな夜会に招待されたことが驚きだ。
 おそらく招待主は、この家の権威を見せつけるために、普段は歯牙にもかけないような弱小貴族の家にも盛大に招待状をばら撒(ま)いたのだろう。
 エメネージュを強引にこの場に連れ出した父親は、通常であればまず出席できない、高位貴族が多く集まる夜会に喜び勇み、しっぽを振ってあちらこちらの集まりに顔を突っ込んでいた。
(見習えるのは、あの社交性だけね)
 いつも家で暴君のように振る舞っている父親が、こうして強者にこびへつらう姿は滑稽ですらある。
 エメネージュはアンバード子爵家の長女で、十八歳を迎えたばかりの未婚の娘だ。
 身長は低からず高からずで、小さな顔はなかなかに整って愛らしく、長い睫毛(まつげ)が縁取る瞳は濃厚な蜜のような琥(こ)珀(はく)色。
 きちんと結い上げた艶やかな髪も瞳と同じ色で、質素なリボンで飾っている。
 よく見るとハッとするような恵まれた容姿だが、華(きゃ)奢(しゃ)な身を包むドレスは、豪華さを競い合う若い娘にしてはごくごく質素なものだった。
 エメネージュを見知っている者は、「いつも同じドレスね」と嘲(ちょう)笑(しょう)してくるが、あまり気にしていない。自分を飾ることに、それほど価値を見出していないから。
「美しいお嬢さん。そんな壁際で花になっていないで、僕と踊りませんか?」
 いきなり視界の端から手が差し出され、エメネージュは琥珀色の瞳を丸くして彼を見上げた。
 背の高い若者が、エメネージュをダンスに誘い出そうとしているのだ。
「……私を美しいとお思いですか? あなたは美しいものがお好きですか?」
 そう尋ねると、彼は目を軽く瞠(みは)ってから笑った。
「ええ、とても美しいですよ。そして美しい人は大好きです」
 エメネージュはうんうんとにこやかにうなずき、言った。
「あなたが美しいものを好むということはわかりました。ではダンスの前に、お互いをわかり合うため、私の興味あることについてお話ししてもかまいませんか?」
「え、ええ……。あなたの興味あることはなんですか?」
 エメネージュの反応は、きっとこの若者の想定とはまるで違うものだったのだろう。彼は気おくれした様子でうなずくも、表情が固まり気味だった。
「私の最近の興味は社会学なんです!」
「……は?」
 若者が怯(ひる)む様子などお構いなしに、エメネージュはやや前のめりになって語り出す。
「社会学というのは、人々の行動や社会構造を深く掘り下げる学問です。例えば、なぜ貴族社会において、表面的な美しさがこれほどまでに重視されるのか。その背後にある社会的仕組みについて考えたことはありますか?」
「え? いや……」
「もしご興味があれば、詳しくお話ししますが!」
 ずいと迫ると、若者は二歩下がった。明らかに顔が引きつっている。
「ま、間に合ってますので……」
 そう言って彼はエメネージュにきっぱり背中を向け、群衆の向こうに姿を消してしまった。
「あら、残念です」
 エメネージュが小首を傾(かし)げて壁に戻ると、近くにいたご令嬢たちの集団がひそひそとこちらを見て笑った。
 アーク伯爵令嬢ミラベル率いる一党である。
(エメネージュさまは本当に変人ね。妹のマリリカ嬢はまともなのに)
(社会学ですって。女の身で学問に傾倒しているという噂は本当なのね)
(もしかしてあの方ですか? 二年前、ロッド侯爵家の嫡(ちゃく)男(なん)エリオットさまに、縁談の席で暴言を吐いたという……)
 ひそひそと声をひそめてはいるが、エメネージュに聞こえるように言っているのが明らかだ。
 しかし、女が学問を修めるのは、ルミネリエ王国では変なことだし、暴言ではなくとも、縁談の席でロッド侯爵家の嫡男をやりこめたのは事実なので、否定はしない。
 ミラベルは、ロッド侯爵家のエリオットが好きらしいのだが、歯牙にもかけられずふられているのだとか。
 それでなぜエメネージュが嫌われることになるのかはよくわからないのだが、とにかく彼女からはその縁談以降、ひどく憎まれているのである。
 付き合いきれないので、ご令嬢たちににこっと笑ってみせてから、エメネージュは壁にもたれて嘆(たん)息(そく)した。
(ああ、こんなことをしている間に、本の一冊も読んでいた方が、よほど実りのある時間を過ごせるのに……)
 貴族の娘として、自分が異端であることは重々承知している。
 そろそろ結婚をして家庭を持ち、子供を産み育て――そういう年齢だし、父親のアンバード子爵が、いつまでも嫁入り先の決まらないエメネージュに業を煮やしているのもわかっている。
 でも、家庭に入って跡取りを産んで、夫や家に尽くすだけの人生なんて、考えただけでぞっとしてしまう。
 そんな型通りの人生を送るくらいなら、いくら変人と言われようと、大好きな学問を心行くまで修めたい。
 そうして自分の知的探求心を満足させる一方で、不遇な子供たちに知識という武器を与え、この理不尽な世の中に抗(あらが)う力を与えてやりたいと思う。
 目の前で繰り広げられる絢(けん)爛(らん)豪(ごう)華(か)な貴族たちの享(きょう)楽(らく)に、エメネージュはやりきれない思いで天井を仰いだ。

第一章 とある子爵家の不幸


「ねえ、エメ先生!」
 教壇に立って授業の準備をしていたエメネージュは、小さな子供たちの賑やかな声に呼ばれて顔を上げる。すると、背の高い若者が子供たちに手を引かれてこちらへやってきた。
「エメ先生。この人、友達のリヒト! 勉強嫌いっていうから、エメ先生の勉強はおもしろいよって教えてあげたんだ」
「今日、一緒に勉強してもいい?」
「ええ、もちろん」
 ここは王都ヴァビナのスフィア神殿に併設された学問所だ。
 学問所といっても、王立学院のような巨大施設とはまるで違い、空き部屋に机と椅子を並べただけの即席教室である。
 週に二、三回、エメネージュをはじめ神殿関係者が、孤児院の子供や近隣の人々に向けて読み書きやかんたんな算術を教えているのだ。
 生徒の多くは子供だが、読み書きのできない大人にも広く門戸を開いているため、狭い空き部屋はすぐにいっぱいになってしまう。
「あなたがエメ先生?」
「え、ええ」
 若者は黒い瞳を輝かせて、エメネージュの顔を真正面からまじまじと見つめてきた。
 二十代半ばくらいだろうか。ぱっちりした二重瞼(まぶた)で、顔のつくりがきれいな男性だ。漆(しっ)黒(こく)の瞳はやたらと光が強くて、じっと見られると落ち着かない気分にさせられる。
「こんな若い女の子が先生やってるなんて、すごいなぁ!」
「女の子」と言われて反射的にむっとしそうになったが、彼の表情からは、本気で感心している様子が伝わってくる。「女が学問?」という懐疑的かつ侮(ぶ)蔑(べつ)を含んだ視線に慣れてしまったエメネージュには、若者の率直な言葉がうれしく感じられた。
「そんなに専門的なことを教えているわけではありませんが、ここは希望者でしたら誰でも勉強できるところです。今日はかんたんな読み書きの授業ですが、リヒトさんもよかったらどうぞ」
「じゃあ、お邪魔させてもらいます」
 彼は短い黒髪を寝ぐせでぴこぴこさせていて、簡素でゆったりした半袖チュニックをざっくり着た、どこにでもいそうな若者だ。
 足元はサンダル履きなので、近所の住民なのだろう。
 にこにこしていて朗らかな性格が前面に出ているが、袖の下に伸びた腕は思ったよりたくましく、彼の柔和な印象を裏切っている気がする。
 でも、子供たちに手を引かれて笑っている姿は本当に楽しそうだ。孤児たちと友達なんて、いい人ではないか。
「では、授業をはじめます」
 教室は二十人も入ればいっぱいで、大半が子供だが、ちらほら大人の姿もある。学びたい人だけが自発的に来るところなので、子供でもだいたい大人しく授業を受けてくれる。
 ルミネリエ王国で使われている大陸共通語の文字を、子供向けの絵本を使って教え、最後に書き取りの試験をする。
 紙は安価な粗悪品だが、教材は貴族の施しで揃えたものだし、授業も無償なので仕方がない。こうして学ぶ機会を与えられるだけでも奇跡的なのだ。エメネージュも、無報酬で教師を引き受けている。
 神殿側は、少ないながらもと謝礼を払ってくれようとしたのだが、エメネージュ自身は生活に困っているわけではないので辞退した。これも貴族の慰問の一環なのだ。
「終わった人から持ってきてください。全部合っていたら今日の授業は終わりです」
 生徒たちが一生懸命、答案紙に答えを書いて、エメネージュのところに持ってくる。
 それをひとつひとつ確認し、ミスは軽く指摘して、いい所を大(おお)袈(げ)裟(さ)に褒め、全員が気分よく帰れるように努めている。
 最後にリヒトが答案を持ってきたが、それを受け取って紙面に目を落としたエメネージュは、思わず目を瞠った。
「えー、リヒトこれなんて書いてあるの?」
「字じょうずじゃん!」
 横から答案を覗き込んだ子供たちが歓声を上げているが、エメネージュは眉(まゆ)をひそめ、上目遣いにリヒトを軽く睨んだ。
「リヒトさん、ここは真面目に学ぶ人たちのための教室です。ふざけるのでしたら、もうここへは来ないでください」
「あー、リヒトが怒られた」
 文字が書けるのに授業にやってきたことを怒っているわけではない。
 ただ、答案の内容がエメネージュの癇(かん)に障(さわ)るものだったのだ。
 ――エメ先生はどこに住んでるの? 恋人いる?
 そう書いてあった。それも、ひどく達筆で。
「ふざけるなんてとんでもない! でも気に障ったなら謝るよ、ごめんなさい。答えはこう……」
 素直に謝罪してエメネージュの手から答案紙を取り返すと、リヒトは彼女の目の前でさらさらと解答を書いて再提出する。
 当然ながら文句のつけようのない答案で、受け取ったエメネージュはそれに丸をつけて返したが、表情は晴れなかった。
「ここは誰であれ、学びたい人に開放していますが、ふざける人はお呼びではありません。冷やかしは困ります」
「冷やかしじゃない! 今の俺にとって一番の関心事はエメ先生で、先生に対する俺の好意を言語化して伝える難問に挑戦してるんだ」
「――は?」
 その論調には覚えがある。夜会で声をかけてくる男性を撃退するとき、エメネージュが相手を煙(けむ)に巻くために弄(ろう)する詭(き)弁(べん)の類(たぐい)だ。
 リヒトの弁ははっきり言って意味がわからないが、相手を怯ませる効果が覿(てき)面(めん)だということは身をもって実感した。現に今、エメネージュはものすごく引いている。
 しかし、リヒトは決してエメネージュを引かせようと思っているわけではないらしく、彼女を見つめる黒い瞳は真剣そのものだった。
「その答案の内容が、挑戦の結果ですか?」
「まずは軽く様子見ということで」
「申し訳ありませんが、それでは及第点をさしあげることはできませんね」
 嘆息して言うと、リヒトは苦笑いして答案を懐(ふところ)にしまった。でも彼の物言いは、無学な者のそれではない。
「……リヒトさんは学問を修めているのですか?」
「修めたって胸張って言えるほどではないけど、エルバルード大司教の私塾でちょっとね。だいぶ昔のことだよ」
 それを聞いたエメネージュは、直前の不機嫌を忘れて琥珀色の瞳をきらきらと輝かせると、ぱっと立ち上がった。
「私もエルバルード先生に師事しています。では、リヒトさんとは同門なんですね! 私塾に通われていたのはいつ頃ですか?」
「え、どうだったかな――通わなくなってもう十年くらい経つと思うけど。子供の頃にちょっとだけだよ。熱心な門下生でもなかったし」
 エルバルードは、このスフィア神殿の大司教にして、学問好きとして有名な人物だ。
 好きが高じて、二十年ほど前から街中に私塾を開設しており、エメネージュは五年前から、その私塾の門下生として学んできたのだ。
 リヒトが同じ先生に師事していたと知った途端に同類感を覚え、手のひらがくるっと返った。
「だからリヒトさんは、女が教師をやっていると知っても、訝(いぶか)らなかったんですね。納得しました。先生の私塾には女性の講師もいますし」
「訝るなんて、まさか。ほんとどうかしてるよ、この国は。知識を求める者に男も女も関係ないのにね。エメ先生の教え方はわかりやすかったし、学ぶことへの興味の入り口としては完璧だと思う」
「それはちょっと褒めすぎですが、ありがとうございます。そうお考えになる男性がいたことを知れてうれしいです」
 ルミネリエ王国にあって、女性が学問に興味を持つのはひどくおかしなことなのだ。
 それどころか、女が学ぶことは害悪とまで言われ、先日の夜会で陰口を叩かれたように、変人扱いされる。
 ましてや教(きょう)鞭(べん)を執(と)るなど、狂気の沙(さ)汰(た)である。知られたらどんな騒動になることか。
 エメネージュの父は、娘が学問をかじっていると知って激怒し、彼女の部屋にあったたくさんの書物を燃やしてしまったほどだ。
 あのときほど女に生まれたことを呪ったことはない。それが貴族ともなると、締め付けは余計にきつくなり、社交界からも爪(つま)はじきにされてしまう。
 そんな中、リヒトは罵(ののし)るどころか同門だったことが判明し、彼に対する好感度はあっさり上昇した。
「ところでエルバルードのおっさん、元気? もうじいさんか」
「はい、とってもお元気ですよ」
 エルバルード大司教は、今年で六十五歳と老齢ではあるが、気力も体力も漲(みなぎ)っている。私塾は弟子たちに任せてあまり顔を出さないが、今でも国中のあちらこちらでスフィア神の教えと学問を広めて歩いていた。
「ねーリヒト、早くさっきの続きやろうよ」
「ああ。じゃあ、また寄らせてもらうから」
 ふたりの会話に飽きた子供たちに腕を引っ張られ、リヒトは手を振って教室を出て行った。
 会話はごく短い時間だったが、男性と話してこれほど気持ちが晴れやかになったのは初めてだ。
 やはり、貴族男性の価値観がおかしいのだろうか。それとも、リヒトが変わっているのか。
 確かにリヒトは、エメネージュの知る多くの男性とはちょっと毛色が違うようだ。具体的に何が違うのかと問われれば、返答に窮(きゅう)してしまうが……。
 常々、男性諸氏の考え方が受け入れられずに嫌悪感を募らせてきたエメネージュにとって、彼の言葉は新鮮だった。
 父親をはじめとした貴族社会の認識は、だいたいこんな感じで一致している。
「女に賢さは不要。むしろ学問なんぞに興味を持つ女はかわいげがなくて駄目だ。家にいて夫を盛り立て、マナーよく、常ににこにこして、刺(し)繍(しゅう)ができてたくさん子供産めればそれでいい。所詮、女は男の添え物にしかならない」
 二年前、縁談のあった侯爵家の嫡男もこんなことを言っていた。
「常に僕より早く起きて遅く寝て、だらしない姿を見せず、貞(てい)淑(しゅく)で完璧な妻でいてほしい。君に求めるものは良妻賢母。子供は五人は欲しいかな、男三人に女二人。子供を教育し、家事をてきぱきこなして、出しゃばらずに僕を盛り立ててくれれば、他に求めるものはない。君のような美しい女性を妻だと紹介したら、みんなに自慢ができるな! とにかくまずは男児を産んでくれれば問題ないよ」
 エメネージュを怯ませるために、嫌がらせで言っているのかと思いきや、彼は悪気なく、むしろ「かんたんでしょう?」と言いたげにペラペラとまくし立てていた。
 こめかみに青筋が浮いたのは言うまでもない。
 思えば、あの十六歳の縁談の席で、『男嫌い』という属性が身についたのだ。
 もちろん、言われっぱなしで黙っていたエメネージュではない。
「私の人生の有意性は、家庭内だけに限られるものではありませんし、見てくれの美しさや神のような寛容さに価値を見出すよりも、私は自分の思考と成果によって評価されたいと考えております。私たちの未来の予測図が一致することは、どうやらなさそうですね。あしからず」
 こうして正面からきっぱりお断りして、両親からこっぴどく叱られた。
 しかし、思うのだ。こんなふうに自分という『個』を徹底的に潰されて、誰かが決めた『あるべき形』に収められることが果たして幸せなのだろうかと。
 考え方も感じ方も、生まれ育った環境によって千差万別なのに、行く末はみんな同じであることを求められる。
 人として生まれて個々の幸せを追求しようとするのは、当然の欲求だと思うのだ。
 ――こういう七面倒くさいことを言い出すから、疎(うと)まれるのだが。
 でも母は、その貴族女性の当たり前を押し付けられて、不遇のまま短い一生を終えた。
 自分はあんなふうになりたくない。貴族社会と男の都合に振り回されて個を殺されるなんて、絶対に受け入れない。
 抗い続けた先に、幸せがあるかどうかはわからないけれど。
 こんな世界だからこそ、リヒトのような考え方を持つ男性に会うのは、エルバルード大司教に次いでふたり目の奇跡だった。

   *

 エメネージュの実家アンバード子爵家は、ルミネリエ王国の中ではこれといった力もない弱小貴族だ。
 今は、先代が築いた財産を食い潰して細々と生活している。
 貴族と一口に言っても様々だが、平民にしてみれば公爵だろうと男爵だろうと、爵位持ちなんてどれも同列に見えるだろう。
 そして、平民には貴族を嫌悪する人もいるので、自分が貴族であることは生徒たちにはひた隠しにしていた。
 でも、決して誇れる家ではない。それどころか、貴族という枠組みの嫌なところばかりが突出した、残念な家庭なのだ。
 先代のアンバード子爵、つまりエメネージュの祖父は、経済に明るかったので、家の規模は大きくなくとも財力はある家だった。
 しかし、先代は男児に恵まれなかったため、一粒種にして箱入り娘アルノアが婿(むこ)を迎えたのだが、その婿ラソールは稀(き)代(たい)のクズ男だったのである。
 それがエメネージュの両親だ。
 父ラソールはとても顔のいい――顔しか取り柄のない男だ。二重瞼のぱっちりした目に柔和な顔立ち。男性としては天使のような美しさを具(そな)えている。
 だが、彼は基本的に自分で何かをすることなく、笑顔ひとつで他人を動かして自分の利にする。いわゆるヒモだ。
 そんな中身ペラペラなラソールの笑顔に、純粋培養のアルノアはころっとやられ、あれよあれよと結婚へと至ってしまったのが不幸の始まりだった。
 ラソールは騎士の家に生まれ育った次男坊で、手っ取り早く爵位が欲しかったのだ。
 結婚後、義父のアンバード子爵が健在なうちは妻をちやほやし、ご機嫌取りに精を出していた。
 その翌年、アルノアはエメネージュを出産し、二年後には次女のマリリカを産んだのだが、第二子出産でアルノアは生死をさまようほどの難産を経験し、これ以上は子供の望めない身体になってしまった。
 同じ年、アンバード子爵が老衰で亡くなるとラソールは晴れて子爵位を継ぎ、父を亡くして嘆く妻をよそに、いよいよ本領を発揮しはじめた。
 出産してからベッドに縛りつけられがちだったアルノアを置いて、賭(と)博(ばく)と女遊びに精を出していたのである。
 当初、そんなこととは露(つゆ)知らぬアルノアは、夫が父の事業を継いで切り盛りしてくれていると信じていた。しかし、エメネージュが五歳になる頃には、とうに事業は廃業していて、財産を食い潰す段階に移行していたのだ。
 それを知ったアルノアは半狂乱になったが、それを嘲笑(あざわら)うかのように、ラソールは若い女を子爵家の離れに住まわせはじめた。
「この家には跡継ぎが必要だからな」
 これがラソールの言い分である。もう子供が産めない正妻に代わり、健康な女性を妾(めかけ)として囲い、男児の出生を期待するというのだ。
 だが、期待するもなにも、父が連れ込んだ愛人は、すでにマリリカと同年の男児を連れていた。その子の容姿がまた、怖いくらいにラソールと瓜(うり)二つ。
 愛人をアンバード子爵家に連れてくるより前に、とっくに彼女との間に子をもうけていたのだった。
 貴族男性が妾を持つことは特別めずらしいことではないし、一応理屈は通っている。
 だが、エメネージュの母アルノアは、そういう意味では寛容な女性ではなかった。
 あれほど好きで結婚した男が、父の事業を潰し、財産を食い潰し、彼の子を産んだ自分を放置して愛人にうつつを抜かしているのだ。許せるはずがない。
 しかも、アルノアは平々凡々な容姿だが、夫が連れ込んだ愛人は非常に見目のいい、男好きのする美女だった。そういった点も、アルノアの精神を蝕(むしば)んだのだろう。
 以来、アンバード子爵家には日々、甲高い怒鳴り声が響き渡ることになったが、ラソールはへらへらと妻の怒気をかわして、ついには離れに引っ込み、本邸にあまり姿を見せなくなった。
 入り婿であるラソールが、子爵家の娘であるアルノアをここまで蔑(ないがし)ろにしていられるのには理由がある。
 ルミネリエ王国では、死別以外の理由で妻から離縁を切り出すことが許されていないからなのだ。徹底した男性優位社会だから。
 さらに、この愛人がふたり目の男児を産んだことで、ラソールはほぼアンバード子爵家の乗っ取りに成功したようなもので、元々悪かった家庭環境は地獄と化した。
 もしアルノアが亡くなるようなことがあれば、名実ともにラソールとその妾がアンバード子爵夫妻となる。
 アルノアは精神的にかなり追い詰められてはいたが、意地でも夫と愛人に家を乗っ取らせてなるものかと、闘志を燃やして健康の維持管理に努めたのだった。
 ――だが、この家庭内冷戦で誰よりも割を食ったのは、長女のエメネージュだ。
 不幸なことに、エメネージュは父によく似た容姿端(たん)麗(れい)な娘に育っていて、面(おも)差(ざ)しがラソールを思わせる。
 アルノアはそんな長女の顔を見ると不機嫌になり、エメネージュがすこしでも意に沿わないことをしたら激しく叱(しっ)責(せき)した。
 それに引き換え妹のマリリカは、母親似の慎(つつ)ましやかな顔立ちをしているし、おとなしくて姉よりも小柄で甘えん坊だ。エメネージュのように、好奇心旺(おう)盛(せい)で口数が多く、理屈っぽい子供よりずっとかわいがられた。
 父親はそもそも、初めての子供であるエメネージュをとことん嫌っていた。
 というのも、こういった荒(すさ)んだ環境で育ち、家庭内に拠(よ)り所のないエメネージュは、七つか八つくらいの頃にはすっかり老成していて、自分の置かれた環境を冷静に判断できるようになってしまったのである。
 そのせいかときどき妙に冷めた目をすることがあり、そんな長女の見透かすような視線がラソールには不快だったらしい。
 それでも、おかしな方向に折れることなくまっすぐ――とは言えないものの、それなりにまっとうに育ったのは、母について行った孤児院の慰(い)問(もん)で、エルバルード大司教と出会えたことが大きい。
 貴族にとって慈善活動は義務であり、バザーを開催して収益を寄付、孤児院への慰問といった活動は日常的に行われている。
 アルノアも、亡き父の教えで慈善活動には熱心で、娘への教育の一環として、幼い姉妹を連れて孤児院を訪れていた。
 エメネージュには冷たいアルノアだが、外ヅラは大変よかったので、排除されることなく外に連れ出してもらうことはできた。
 八歳の頃、大司教自ら孤児たちに読み書きや算術を教えている様子を見て、エメネージュも末席に参加させてもらったのだが、これが楽しくて仕方なかった。
 幼い頃から、良家の子女として刺繍や詩の朗読は嗜(たしな)んでいたが、所詮は花嫁修業の一環でしかない。エメネージュは器用なので、なんでも如(じょ)才(さい)なくこなしたが、心から楽しいと思えたのはエルバルードの授業が初めてだった。
 自分の頭でものを考えるという作業がひどく性(しょう)に合っていて、特に算術がお気に入りだ。
 どうやらエメネージュは、両親ではなく祖父の知的なところを継承したらしい。
 以来、慈善活動とかこつけてはスフィア神殿に通い、図書館に入り浸って学問の書物を紐解いた。「慈善活動だ」と言えば誰にも咎(とが)め立てされなかった。
 父はめったに姿を現さないからいいものの、母は長女の顔を見ると目くじらを立てて暴言を吐いたり、ときには物を投げつけたりする。
 エメネージュの外出は、母娘双方の心の安(あん)寧(ねい)のために必要なことだったのだ。嬉(き)々(き)として外へ出て行った。
 エルバルード大司教も、熱心に学ぶエメネージュを目にかけてくれ、たくさんの知識や書物を与えてくれた。
 彼女が十三歳になる頃には私塾に誘ってくれて、週に二回、短い時間だが講義に参加した。そのほか、自宅にひそかに持ち込んだ書物で猛勉強した結果、今日のような性格が形成されていったのだった。
 こんな環境下、敵対する両親を見て育ったエメネージュが『結婚とは、男女の精神的な殺し合いである』と思ってしまうのも、致し方のないことなのかもしれない。
 二年前、母が三十四歳という若さで他界したのも、その殺し合いの結果としか思えなかった。

   *

 それからというもの、リヒトはエメネージュが教鞭を執る日にはだいたい姿を見せるようになった。
 いつも親しい孤児たちと一緒に現れるが、大の男が昼日中からこんなところで時間を食っていて大丈夫なのだろうか。
 彼が何者なのかは気になったが、自分もここでは身分をひた隠しにしている。自分の秘密を暴かれては困るので、人様の事情を聞き出したりはしない。
 でも、彼はいつも簡素なシャツやチュニックにざっくりした下衣、サンダル履きという無(む)造(ぞう)作(さ)な姿だから、近所の住民なのは間違いない。
「こんにちは、エメ先生! 今日もよろしくお願いします」
「お願いします!」
 教室に現れると、誰よりも早く大きな声でリヒトが挨拶するので、子供たちもそれを真似る。挨拶は大事だと常々教えてきたが、子供たちが気持ちのいい挨拶をするようになったのは、彼の影響が大きいだろう。
 細かなところでリヒトに助けられている気がするから、今さら読み書きを学ぶ必要のない彼が顔を見せても、エメネージュは嫌な顔はしなかった。
 基本的に男性にあまりいい印象を持っていないのだが、リヒトだけは自分が知っているどの男性とも違って、会えるのが楽しみな人になっていた。
「こんにちは。こちらこそよろしくお願いします」
 彼は常に機嫌のいい顔をにこにこさせ、子供たちに手を引っ張られるままに席に着く。
 幼い頃から父母の殺(さつ)伐(ばつ)とした関係ばかりを見てきたせいか、誰かが笑ってくれていると、この上なく平和を感じて心が穏やかになった。
 今日は、どこかでこの教室の噂を聞きつけたのか、見慣れない新顔もいくつかあった。
 このところ、読み書きができない大人が受講しにくる機会が増えたのだが、中年の男性がふたり、エメネージュの顔を見るなりあからさまに侮蔑の表情を浮かべた。
「ここで読み書きを教えてもらえるって聞いたけど、こんな小娘が教師?」
「おいおい、冗談だろ。そんな話は聞いてねえぞ」
 ここで教えているのはエメネージュだけではなく、スフィア神殿の神官も持ち回りで受け持っている。若い女性が教師だなんて思わなかったのだろう。
「ここは学びたい方のために開放している学問所です。ご不満でしたら退室なさってもかまいませんよ」
 こんなことは日常茶飯事なので、エメネージュは穏やかに帰るよう勧めたのだが、男たちはそれを生意気と見(み)做(な)したようだ。
「口の利(き)き方を知らんのか、小娘が」
「年長者を敬うことは教えてもらえなかったらしいな。逆にこっちが教えてやろうか?」
 荒々しい口調で大きな声を出し、肩を怒(いか)らせながらエメネージュに向かって詰め寄ってくるので、それを見た子供たちが怯えていた。中には泣き出しそうな顔をしている子もいる。
 とにかく外に追い出さなくては、今日の授業に支障が出そうだ。
 貴族男は元々嫌いだが、平民にもこういった輩(やから)は少なからずいて、たまに手を焼くことがある。他人の不機嫌には慣れているので、エメネージュは声を荒らげられても動揺しないが、管を巻かれたら面倒くさい。
 だが、エメネージュが口を開くより先にリヒトがこっちへやってきて、男の肩に手を置いた。
「ねえ、年長者だからって無条件に敬われるなんて思わない方がいいですよ。あんたらのような狼(ろう)藉(ぜき)者(もの)は、同じ大人として恥ずかしいから。その姿、子供たちの前で誇れるの?」
「なんだと、小僧――」
 男は息巻いて背後を振り返ったが、自分より背の高い若者に見下ろされて声を失った。
 リヒトは決して強(こわ)面(もて)ではなく、どちらかといえば柔和な顔立ちだが、目の力が強い。口調はやわらかなのに、それを裏切って余りある鋭い眼光に、肩に手を置かれた男は逡(しゅん)巡(じゅん)する。
 だが、もうひとりの男はその眼光の洗礼を浴びずに済んだため、リヒトの前に移動して彼の手を払った。
「おまえも男なら、こんな小娘に頭を下げるなんて恥を知れ」
「恥を知るのはそっち。エメ先生、俺、今日はちょっと退出しますので、授業進めておいてください」
 驚いて目を丸くするエメネージュに彼はにこっと笑いかけると、口汚く罵る男たちの首根っこをつかんで教室の外へと連れ出す。
「リヒトさん……!」
 扉を出て行く際、彼はもう一度こちらを見て笑いかけると、そのまま建物の外へと出て行ってしまった。
 彼のことは心配だが、エメネージュが出しゃばっても事態の収拾がつけられるとは思えない。リヒトに任せて自分は自分のやるべきことをなすだけだ。
「びっくりしちゃったね。でも、強いお兄さんが守ってくれたから、心配いらないよ。今日のお勉強をはじめましょう」
 最初は少々場の空気が乱れていたが、こういったことは初めてでもない。普段よりも明るい口調でいつもどおりに授業をこなしたら、子供たちもすぐに落ち着きを取り戻し、終わる頃には笑って帰っていった。
 でも、内心で一番そわそわしていたのはエメネージュかもしれない。
 手早く後片付けをすると、学問所を飛び出した。


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