書籍詳細
嘘はいつしか愛になる
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2024/10/25 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
ほろ酔い気分で電車にゆられながら、さっきの公くんの言葉を反芻(はんすう)する。
『おじさんに倫さんを紹介したい』とは、いわゆるそういうこと……なのだろうか。いずれは結婚しましょう、という。
出会って一年。交際をはじめて半年。身内を紹介するのはまだ早いのではないかとも思うけど、世間的にはそうでもないのだろうか。これまで男性ときちんと付き合った経験がないので分からない。
自分にとって恋人といえるような存在は、彼が初めてだ。
大学進学で上京してからというもの、十二年間、がむしゃらに生きてきた。学生時代は勉強とアルバイトに明け暮れ、社会人になったらそれが仕事にとって代わった。自分には帰るべき家がない。迎えてくれる家族もいない。いつ切れるのか分からない綱の上をずっと歩いているような心細さが常にある。
そんな性格なものだから友人もいない。できないし、つくらない。それをさびしいと感じることもさほどない。
誰かを信じたら、いつか必ず裏切られる。
わたしはずっと自分にそう言い聞かせてきた。人間は嘘をつく生きものだ、と。どんな善人でも、どんな悪人でも、人間である限り大なり小なり嘘をつく。
だからもう絶対に誰かを信じたりしない。そのはずだったのに、公くんはわたしのなかにするりと入ってきた。
まさか再び誰かに対してこんな気持ちになるなんて、想像もしていなかった。わたしは誰とも付き合わなければ、結婚することもないだろう。ずっとそう思っていた。だけど、もしかしたら彼となら――。
バッグのなかの携帯が鳴る。公くんからのメッセージだ。
『おじさんからさっそく、公のカノジョに会うのが楽しみだってメールがきた(^O^)』
それを読む自分の顔が車両の窓に反射している。頬がつやつやと、嬉しげに輝いている。
二
食事会の当日は約束の時刻に余裕をもって職場をでた。
今日こそはと、ヘアサロンで髪をカットして、トリートメントもしてもらった。服装は堅苦しくない程度のスカートスーツ。公くんもジャケットを着てきて、普段より改まった装いだ。彼の選んだレストランは赤坂(あかさか)の中華料理店。ここの水餃子は絶品なのだそう。
「おじさん、餃子が好きなんだよね。昔、よく作ってくれたなあ」
「おうち餃子っていいわね。楽しそう」
「あ、じゃあ今度一緒に作ろうよ。餃パしよう」
個室の円卓で会話しながら叔父さんの到着を待っている。
「さっきおじさんからメールがきたんだけど、仕事の打ち合わせが長引いてるみたいで。ごめんね、こっちから呼んでおいて」
ううん、と首を振ると、
「ひょっとして緊張してる?」
図星を突かれてどきりとする。
「分かる?」
「うん。だってそれ」
彼はわたしの胸もとに視線をやる。左手がブラウスの上から、ネックレスのペンダントヘッドを押さえていた。
「それ、倫さんが緊張してるときの癖だよね。胸の真ん中あたりで手をぎゅっとしてるの」
付き合いはじめの頃も、しょっちゅうそうしていたそうだ。自分にそんな癖があるなんて、今の今まで気づかなかった。
「大丈夫だよ。おじさん、えらそうな人じゃないし。父親代わりっていっても、まだ四十そこそこだし。倫さんに会うのが楽しみだって言ってたし」
そう言われるものの、かわいい甥にふさわしい相手かどうかチェックされるにきまっている。わたしはさして愛想がいい方ではないし、加えて彼より四つも年上だ。
そう洩らすと、公くんは「ぜんぜん大丈夫だって」とにっこり笑う。むしろ叔父さんから、おまえは年上の女性の方があってるんじゃないかと言われたそうだ。
「おじさん電話で言ってたなあ。年上の女性は強いぞ、って。男の数倍タフなんだって。なーんか実感がこもってたなあ」
それから「あ」と思いだしたみたいに、
「それにおじさんと倫さん、たぶん話が合うかもしれない」
ピータンの薄切りに白髪ねぎを添えた前菜をつまみながら言う。
「おじさんさ、産廃っていうの? ゴミ処理関係の会社で働いてるんだよね。倫さん、そういうとこにもよく行くんでしょう。調査とかで」
「あ、うん。産廃って……公くんの叔父さん、そういう会社にお勤めなの?」
「あれ、言ってなかったっけ? そうなんだよ。ほら、倫さんの方の地元の町にあったじゃん。あのでっかい、有名な……」
山縣県のあの地域で産業廃棄物処理を行っている会社といえば、ひとつしかない。
とたん、頭の奥がずきんと痛む。それはどこか心憶えのある痛みだった。
「ええと……なんていう名前だったっけ」
「黒澤産業」
彼に代わってその社名を、わたしは口にする。
「そう。それそれ。さすが倫さん、地元民だね。うん、そこでけっこう長いこと働いてるんだ、うちのおじさん」
ずきん、ずきんと警告のような痛みが鳴り響く。
「――公くん」
そういえば肝心なことを確認するのを忘れていた。叔父さんのお名前をまだうかがっていなかった。まさかとは思う。まさかそんなはずはない、と。でも――。
そのとき個室のドアがこんこんとノックされる。音もなく背後の戸が引かれ、
「遅くなりまして、どうもすみません」
低い声が背にあたった。瞬間、びくんと身体がこわばった。低くて深い、静かな声。やさしそうでも冷たそうでもある声。その声を自分が憶えていることに衝撃を受けた。もうとうに忘れたはずだったのに。
「お~、今ちょうどおじさんのこと話してたんだよ」
公くんが、ぱっと顔を明るくさせて腰を上げる。わたしもぎくしゃくと椅子から立ち上がり、彼の叔父をゆっくりと見上げる。
「初めまして。公さんとお付き合いさせていただいております、牧野倫と申します」
動揺を抑え込んで、挨拶をする。がっしりとした体格に白髪交じりの短髪。穏やかでいて端整な面差し。なにかを諦めた人のようなまなざしに、隠しきれない驚きが浮かんでいるのを見てとった。わたしの目にも同じものがあらわれているだろう。
「成(なる)瀬(せ)巧(たくみ)と申します」
わたしをじっと見つめたまま、彼は自己紹介をする。驚きの色をすぐに目の奥に引っ込めて、ごく普通に坦々と。
――そうだ。この人はそういう人だった。感情の切り替えが上手で、自分の本音を見せない人。十年経っても変わっていない。成瀬さんは相変わらず成瀬さんだ。
固まっているわたしを緊張していると思ったらしく、公くんが明るい声で呼びかける。
「じゃあ、とりあえず青島(チンタオ)ビールで乾杯しようか」
食事会はなんとか、つつがなく終わった。
わたしは我ながらがんばった。料理に舌鼓(したつづみ)を打ち、適度にお酒を呑み、無口になりすぎない程度に会話にも参加した。恋人の身内に初めて対面する“彼女”らしく、緊張まじりの控えめな笑みを浮かべて成瀬さんに接した。途中から自分自身の感情を切り離し、ほとんど何も感じないようにした。向こうもまた、甥の恋人に対する“叔父さん”としてみごとに振る舞っていた。みごとすぎるほど。
わたしたちは初対面の者同士が交わす会話のような会話を交わし、公くんを間に挟んで友好的な食事会を演じきった。変な言い方になるけれど、協力しあってさえいたような感じだった。
北京(ペキン)ダックもふかひれスープも味がしなかった。水餃子に至っては口をつけられなかった。公くんに「もうお腹いっぱいになっちゃって」と言い訳をしつつ。
そんなわたしに成瀬さんは「どうぞ無理せず、ご自分のペースで」と言った。とても紳士的に、そつがなく。
食後にジャスミン茶を飲んで会計する頃には、わたしはぐったりと疲労困憊(こんぱい)していた。公くんは今夜、叔父さんを自分のアパートに泊めるという。
「じゃあね、倫さん。帰り道、気をつけて」
「公くんもね。今日はどうもごちそうさまでした。お会いできて嬉しかったです」
最後のひとふんばりで成瀬さんに食事のお礼を言うと、向こうはどこまでも礼儀正しく応じる。
「至らないところもありますが、どうぞ公をよろしくお願いします」
その表情はどこまでも、甥思いの叔父さんそのものだった。
歩道の角を曲がって彼らの視界から自分が消えるなり、我慢できずにその場で嘔吐してしまう。食事会の間じゅう、ずっと吐き気をこらえていた。胃のなかのものをすべて吐き尽くしても、気分はすっきりしなかった。通行人の嫌悪の視線が痛かった。
その二日後。部内の定例ミーティングが終わると、「ちょっといいかな」と伊丹理事に呼ばれて理事室へ入る。「牧野くんに任せてみたい案件があるんだ」と。
理事は某企業から、所有している雑木林を手入れして里山にしたいという相談を受けたという。
「里山再生ですか」
「そう」
里山とは、人が暮らす「里」と、野生動物たちが生息する「山」の中間部に位置する地域を指す。農業や林業などで適度に人の手が入ることで生態系のつりあいがとれ、動植物の保護対策ともなる。近年はその価値が少しずつ見直されるようになって、里山の保全や再生に力を入れる自治体も増えてきた。うちの財団にもしばしば里山関連の依頼は持ち込まれている。
一昨日、伊丹理事はその企業の担当者と会ったそうだ。うちの里山再生計画に、環境学の第一人者である伊丹先生にぜひアドバイザーとして参加してほしい……と頼まれたらしい。
「でも、理事のスケジュールは年内はもう詰まっていますよね」
「そうなんだ。だけどわざわざ東京まで足を運んでくれたものだから、むげに断るのも気がひけて」
理事はひと呼吸おいてから、「きみ、僕の代わりにやってみない?」と言ってくる。
「え」
思わず声がでた。
「で、でも……よろしいんでしょうか、わたしで」
理事はうなずき、
「里山の再生はきみが大学院時代に取り組んでいたテーマのひとつだったろう」
そう。わたしの修士論文は『未来に向けた里山保全活動の可能性』という題名だった。これまで里山関連の案件を手伝ったことは何度かあったものの、自分自身がメイン担当者としてがっつりと関わったことはない。
「どう、興味ある?」
「それはもちろんです」
すると理事は目を光らせ、「実をいうと、この件をきみに任せたい理由はもうひとつあってね」と言う。
「たしかきみは山縣県の日之本町という町の出身だったよね」
唐突に話題が変わって面食らう。
「はい、そうですが」
「じゃあ、黒澤産業は知っているかな?」
喉の奥が、しゃっくりの寸前のように、ひくりとする。黒澤産業。この数日でまたその社名を耳にするなんて。知っているも何も――。
「はい。地元ではちょっと有名な産業廃棄物処理会社です」
「そうらしいね。本件のクライアントはそこなんだよ。ええと、この方が担当者」
理事は袖机の引き出しを開けると、名刺を一枚とりだして渡してくる。表面がでこぼこした再生紙だった。
《黒澤産業株式会社 総務部秘書課 秘書室長兼里山再生プロジェクトリーダー 成瀬巧》
なるほど、そういうことだったのか、と腑(ふ)に落ちた。
公くんが言ってた“おじさん”が東京にくる仕事とは、これのことだったのか……と。あの人は今もあの会社で、あの人物の手足となって働いているらしい。相変わらず。しかも秘書室長とは出世したものだ。昔はただの秘書にすぎなかったのに。
「地元出身のきみだったら現地の自然環境も熟知してるだろうし、住民のみなさんとコミュニケーションもしやすいんじゃないかな。どう? 里帰りも兼ねていってみるというのは」
即答は避け、少し考えさせてほしいと言って退室する。
その日、仕事帰りに「ポレポレ」へ立ち寄った。公くんのシフトが終わるまでコーヒーを飲みながら、昼間の理事とのやりとりを思い返した。
里山の再生には何千万もの費用がかかる。いくら最近流行っているといっても、そうそう気軽に手をだせる事業ではない。雑木林の伐採に土地に適した樹木の植え替え。管理費なども含めると億はくだらない。
そんな予算を捻出(ねんしゅつ)できるほど、黒澤産業は潤っているのだろうか。それとも、まだひそかにあれをしているのだろうか――。
シャツ越しにペンダントの先端を握りしめる。
もしもこのプロジェクトのアドバイザーを引き受けたら、わたしはあの人と改めて顔をあわせることになるだろう。無論、その上にいる人物とも。そんなことをする勇気と覚悟が、自分にあるだろうか。せっかくこれまで平穏にやってきたのに。いまさら昔のことを掘り返さずともいいではないか。
わたしには公くんがいる。充実した仕事も、安定した暮らしもある。十二年かけて手に入れた、大切なものたちだ。だからもう昔のことなんて、忘れてしまえばいい。
頭のなかで何度も何度も自分にそう語りかける。
あれはもう終わったことなのだから。忘れた方がいいことなのだから、と。
だけどもし、もしもまだ終わっていないとしたら――。
もしもこの案件を引き受けたら、わたしは黒澤産業のなかに入れる。あの件に関する資料や手がかりを調べることもできるかもしれない。
「どうしたの、倫さん。怖い顔しちゃって」
はっと我に返る。シフト明けの公くんが、すぐ横にいるのに気づかなかった。
「珍しいね。予告なしに店にくるなんて。普段は『明日いくね』とか教えてくれるのに」
「ごめんね、いきなり」
「ううん。嬉しいよ」
冷えたコーヒーを飲み終えて席を立つ。夜道を歩きながら先日の会食について公くんは語る。「本当にありがとう。楽しかったよ」と。
あの晩はアパートへ帰宅後、男同士、深夜まで呑み明かしたそうだ。
「公くんの叔父さん……わたしのことで、なにか言ってた?」
おそるおそる尋ねると、彼はそれを恋人の身内に気に入られたのかどうか気にしていると受けとったようで、安心させるように微笑みかけてくる。
「うん。すてきな女性だねって」
「そう」
それだけですか、と心のうちでつぶやく。それだけですか、成瀬さん、と。
――決めた。
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