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愛が何かもわからずに

白石さよ / 著
三廼 / イラスト
ISBNコード 978-4-86669-713-0
サイズ 文庫本
定価 880円(税込)
発売日 2024/10/25

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内容紹介

彼女は愛してはいけない復讐の相手

 

大手電機メーカーで働く早穂子を取り巻く環境は、優秀な中途採用者・遥人の入社で急激に変化する。元彼の浮気を発端に、遥人と急接近する早穂子。「君を奪うために近づいた」これが破滅的な恋だと予感していても、想いを止めることはできなくて……。そして遥人を熱烈に愛してしまったあとに知る残酷な真実。彼にとって早穂子は、愛してはいけない復讐の相手だったのだ――。「君の全部が欲しい。過去も未来も、全部」それぞれの想いが複雑に交錯する。胸を焦がすドラマチックラブ。

人物紹介

小谷早穂子(こたに さほこ)

堅実で安定志向。恋愛にも慎重に生きてきたけれど、どこか危険だと分かりながらも遥人に惹かれていって…。

芹沢遥人(せりざわ はると)

アメリカの大企業から転職してきたエリート。傷ついた早穂子を元彼から奪うようにして手にするけれど…。

立ち読み

プロローグ


 客室の薄暗い照明に白いシーツが浮かび上がっている。それを見た途端に足がすくんだ。
「あの……私……」
「もう遅い」
 背筋を撫(な)でるような声音も、私をシーツに押し倒す腕も、そのやわらかさとは裏腹に抗(あらが)いがたい鎖で心と身体の自由を奪ってくる。
「昼間の貞淑な君が乱れているところが見たい」
 服が乱され、今まで恋人にしか見せたことがなかった肌が彼の視線と愛(あい)撫(ぶ)に晒(さら)される。恐怖に似た快感は恋人を裏切る罪悪感のせい……?
 肌をなぞる繊細な愛撫に、声を堪(こら)えて身を捩(よじ)る。感じていることを知られてしまったら、引き返せない深みに落ちる気がした。
 でもそんな意地は通用しなかった。
「脚を開いて」
 抗おうとする心とは裏腹に、身体はすでに彼の思うままだった。勝利を確信した彼の目が獰猛(どうもう)に光る。
「可愛(かわい)い人だ」
「や……だめ……っ」
「でも君は僕を受け入れてる」
 喘(あえ)ぐ喉に胸に、吸いつくようなキスが赤い跡を刻みつける。
「僕もずっと君が欲しかった」
 のしかかる身体も囁(ささや)きも熱いのに。
 どうしてあなたはそんなに冷ややかな目で私を抱くの……?


第一章


「直帰なので、あとはよろしく」
 コートを片手に部内を横切る新山(にいやま)亮平(りょうへい)を女子社員たちが仕事の手を止め見送っている。堂々として自信に満ち溢(あふ)れた彼の所作は、上背のある恵まれた体(たい)躯(く)とはっきりとした顔立ちも相まって周囲の目を引きつける力がある。
 その中で小(こ)谷(たに)早穂子(さほこ)は顔も上げずにパソコンのキーを打ち続けていた。しかし亮平の“直帰”という言葉を聞き、わずかに表情を曇らせた。
 それでも手を止めなかった早穂子だが、亮平の足音が完全に遠ざかると、そっと顔を上げて彼の背中に視線を向けた。
 ドアが閉まって間もなく早穂子のスマートフォンが振動する。
“急な接待が入った。遅くなるから、明日行く”
“ごめんな。明日たっぷり埋め合わせするから”
 亮平からのメッセージをこっそり確認し、再びキーを打ち始めた早穂子の口元は自然と綻(ほころ)んでいた。
 エレクトロニクスメーカーの堤(つつみ)電機に早穂子が入社したのは六年前だ。神(こう)戸(べ)の実家を離れて東(とう)京(きょう)の大学に進学し、卒業後は堅実性を求めてデバイスに強い堤電機を選んだ。この春で入社七年目に入る現在は総合企画本部の戦略推進室に勤務している。昨年の夏にディスプレイ事業本部から課長として同じ一課に異動してきた亮平は早穂子の直属の上司にあたる。
 三十三歳の若さで管理職に昇進するのは堤電機では異例の早さで、最短記録だと言われている。華やかで整った容姿を持ち、しかも独身とあって、着任してすぐに亮平は女性社員たちの注目の的となった。
 当初、早穂子は周囲のそんな熱気から少し距離を置いていた。厳格な家庭で育った早穂子は恋愛に慎重で、しとやかな美人ながらそれまで男性と付き合った経験がほとんどなかった。亮平のような華やかな男の恋人の座を狙うなど考えもしなかったのだ。亮平は地方の事業部出身ながら本社幹部の覚えがめでたく、また非常なやり手で見識も広い。早穂子はそんな亮平の部下でいられるだけで満足していた。
 ところが亮平が恋人候補に選んだのは早穂子だった。強引なアプローチに戸惑いながらも、もとより亮平を敬っていた早穂子が彼のものになるまでに長くはかからなかった。付き合い始めてまだ半年ほどだが、亮平はすでに結婚の意志を示してくれている。信頼できる上司である亮平との交際は、結婚への理想的な道筋に思えた。
 亮平からのメッセージに返信はせず、既読をつけただけでそっと画面を閉じる。仕事中であることを当然亮平は承知の上で、こういう時に返事をするとあとで“お仕置き”があるのだ。生真面目な早穂子はわざわざお仕置きを狙うようなことは恥ずかしくてできない。
 しかし、微(ほほ)笑(え)みながらスマートフォンをバッグに仕舞いかけた早穂子の手がふと止まった。順調な交際の充足感のあとには、いつもふわりと不穏な記憶が蘇(よみがえ)る。
 早穂子のもとに知らない番号から電話がかかってきたのは、亮平と付き合い始めてまだ間もない頃のことだった。普段、用心深い早穂子は知らない番号から電話がかかってきても不用意に応答することはない。しかしこの時はなぜか胸騒ぎがして通話ボタンを押してしまった。
 一応用心して無言で電話に出たが、相手も無言だ。やはりいたずら電話かと早穂子が切ろうとした時、ようやく相手が声を発した。
『……小谷早穂子さんのお電話ですか?』
 今にも消え入りそうな、か細く震える女性の声だった。電話番号と同様、その声にも心当たりはない。
『……はい』
『…………』
 相手も名乗るものと思い答えたが、電話の向こう側は沈黙してしまった。
『どちら様ですか?』
 電話に出たことを早くも後悔しながら早穂子は辛抱強く尋ねたが、次に聞こえた相手の言葉に鳥肌が立った。
『……新山亮平さんとお付き合いされているのでしょうか』
 その女性は名乗るどころか、亮平の名前とプライベートな関係まで確認してきたのだ。
『先にお名前を仰(おっしゃ)るのが礼儀ではありませんか?』
 相手の一方的な態度に怒りを覚えた早穂子が厳しい口調で切り返すと、電話はふつりと切れてしまった。見知らぬ何者かにプライベートを見張られる恐怖と気味の悪さは電話を切ると余計に増幅し、そのあと何日も嫌な気分が晴れなかった。
 その忌(い)まわしい着信履歴は消さずに残してある。本当はすぐにでも消してしまいたかったが、もう一度かかってきた時にあの発信者だとわかるようにするためだ。
 しかしあれから五か月が過ぎたが、あの番号、あの声で電話がかかってくることはなかった。
(あれは何だったのだろう……)
 終業後、会社近くのカフェで友人を待っていた早穂子はぼんやりとスマートフォンの画面を眺めた。すっかり忘れているようでも、ふとした時に気味の悪さとともに思い出してしまう。電話を受けた際は動揺のせいで気に留めなかったが、今でも耳にこびりついているあの声は憔悴(しょうすい)しきっていたように思うのだ。短いやり取りだったが言葉遣いは丁寧で、悪質な人物ではないように思う。それならなぜ、あんな電話を──。
「ごめん、仕事が長引いちゃって」
 そこまで考えたところでポンと肩を叩(たた)かれ、我に返る。
 待ち合わせの相手は同期で一番仲の良い友人である福本(ふくもと)由希(ゆき)だ。二人は同じ戦略推進室だが早穂子は一課、由希は二課に所属している。
「履歴を見てたの? もしかしてまたあの変な電話がかかってきた?」
 正面の席に座りながら由希が顔を曇らせる。何でも話せる相談相手の由希にはあの電話のことを打ち明けていた。
「ううん。スマホの整理してただけ」
 早穂子は笑って首を横に振り、スマートフォンを閉じてバッグに仕舞った。履歴の整理をするたびにあの番号が目に入るのも嫌なものだ。もう時効ということで消してしまってもいいのかもしれない。
「あれから新山課長にはちゃんと言ったの? 怪しい電話があったこと」
「うん。でも心当たりがないって」
「だろうね。男は身に覚えがあってもそう答えるものよ」
 由希にそう言われ、また早穂子の心が陰(かげ)る。その電話があったことを告げた際の亮平の反応が何となく腑(ふ)に落ちなかったからだ。
 早穂子の部屋でパソコンを前に仕事中だった亮平はそれまでの生返事とは少し変わり、根掘り葉掘りその電話の状況を早穂子に問いただした。いつ、どんな声で、どんなやり取りをしたのか。パソコンに顔を向けたままで何気ない風ではあったが、キーを打つ彼の手は止まっていた。特に“消え入りそうなか細い声”と早穂子が説明した時、肩越しではあるが亮平の緊張感が高まった気がして、やはり何かあったのかと彼の返事を待つ早穂子も固唾(かたず)をのんだほどだ。
 少しの間のあと、亮平はパソコンを閉じて“心当たりがまったくない”という否定の言葉とともに笑いながらこちらを向いた。
“誰にも邪魔できないよ。早穂子は俺のものだから”
 そう言いながら亮平は早穂子をベッドに連れて行った。
 しかし、あの夜の亮平を思い起こすと、早穂子は今でも違和感を抱いてしまう。亮平以外に経験がないだけに直感としか言えないが、亮平が自分ではない誰かを抱いているような感覚に襲われたことを覚えている。
“早穂子は俺のものだから”
 亮平の言葉をよく考えてみれば早穂子の疑問の核心に答えてはおらず、ただ女が喜びそうな耳に滑らかな台詞(せりふ)でしかない。あの時、亮平の中に自分は存在していたのだろうか──漠然とそんな疑念が湧いてしまう。
 しかし確たるものは何もない。安穏の逆作用のような取り越し苦労でしかないのだろう。回想をやめ、早穂子は唇を尖(とが)らせながら由希に笑いかけた。
「新山課長に言えって言ったの、由希なのに」
「こんな攻撃を受けましたよっていう警告は出しておかないとね」
 由希も笑って答える。
「まあ、新山課長に限ってありえないか。私の元彼とは違うよね」
 由希は二年間も付き合った恋人と別れたばかりで、ここのところ早穂子はよくこうしてご飯に付き合っている。口では皮肉めいたことを言って気丈に振る舞っているが、由希が本当はかなり落ち込んでいることがわかるからだ。今日は早穂子も亮平にドタキャンされたので、由希からのお誘いはちょうどよかった。
「見てくれのいい男って自分の価値をよくわかってるから浮気のハードルが低いのよ。ばれなきゃいい、ばれても許されるって」
 由希の元彼は亮平と同じく周囲の注目を集めるタイプだったが、華やかな交友関係の裏では浮気を繰り返していたらしい。由希はそのことに気づきながらも彼のことが好きすぎて問いただせず、結局彼が浮気相手に乗り換える形で二年の関係が終わってしまった。そのせいで由希は一転して徹底したイケメン嫌いになっている。
「早穂子も用心した方がいいよ。新山課長、超モテるし」
「そうだよね……」
 しかし亮平は早穂子を口説き落とす際、こう言ってくれた。
“同じ部署だし上司だからね。当然それなりの気持ちで言ってる”
 その発言通り、亮平は早穂子との交際について部署内にオープンだ。そんな彼がいいかげんなことをするはずがない。
 心の中で亮平を擁(よう)護(ご)しているのが聞こえたわけではないと思うが、由希は早穂子にとって痛い部分を指摘した。
「早穂子って辛抱強いから、何かトラブルがあっても相手を責めたりしないでしょ? そういうのって男にとっては妻として都合がいいんだよ」
「……耳が痛いわ」
 由希が辛辣(しんらつ)すぎる面もあるが、言っていることは当たらずとも遠からずだ。
 中高時代、男子たちの勝手な裏人気投票で早穂子は決まって“奥さんにしたいタイプ”に名前が挙げられた。“恋人にしたいタイプ”などではなく、いつもそれだ。お堅い真面目ぶりをみんなの前で強調されているようで、名前が挙がると華のなさを自覚する結果にもなっていた。
「私って省エネ家電みたいな女なのかな」
 早穂子が中高時代からのコンプレックスを明かしため息をつくと、由希がフォローに転じる。
「早穂子は模範的優等生だから逸脱しない安心感があるんだよ」
「由希はいいなぁ。恋人にしたい女子に選ばれるタイプだもん。その方がいいな」
「でも結婚適齢期になるとスルーされるタイプなのよ、私。現にあいつ、新しい彼女と結婚するって盛り上がってるらしいし。新しい彼女、家庭的なんだってさ」
「そうなんだ……」
 図らずも由希の生傷に触れることになってしまい、早穂子は顔を曇らせた。
「ま、いいけどね! あんな男、どうせまた浮気を繰り返すよ」
 由希は強気に笑うと話題を元に戻した。
「早穂子は私みたいにならないように、もしまた変な電話とかあったら今度は毅(き)然(ぜん)と問い詰めるんだよ。そういうのって付き合い始めが肝心だから」
「うん、そうする」
 神妙に頷(うなず)いたが、実際のところ上司である亮平に強い態度を取るのはハードルが高い。
 今日だってそうだ。亮平の外出先は特に接待があったり長引いたりする相手ではない。だから接待という理由でのドタキャンに疑問を感じないわけではないが、極秘の交渉業務も多い亮平だけに、過度な詮索は控えねばと自分を納得させている。プライベートの亮平は気分の浮き沈みが激しく、早穂子は彼の機嫌を損ねないよう、いつもこうして気を遣っていた。そんな関係からいつか脱却できるだろうか。
「それはそうと、来月新しい人がうちの二課に来るらしいの。三十二歳の男性だって。私らより四つ上」
 内心悶々(もんもん)としている早穂子をよそに、話題はさっさと移っていく。
「どこの部門から来るの?」
「他部門からの異動じゃなくて、アメリカの大企業からの転職だって。ヘッドハンティングとかかなぁ?」
「へえーすごいね」
 すると由希がニヤリと笑った。
「今は新山課長が出世街道独走状態だけど、脅(おびや)かす存在になるかもよ」
「由希ったら、友達の恋人が負けるのを期待してるの?」
「だってイケメンは私の敵だからさ」
 亮平は活躍を期待される筆頭だと言われているが、彼が頭角を現したのは最近のことだ。本社に異動してくる前、亮平は埼玉(さいたま)県北部に生産拠点を置くディスプレイ事業本部にいた。本部長室所属だったと聞いているが、彼が今の部門に来るまでその名前が本社で話題になったことはない。
 ただ、開発競争で敗色が濃く、存続が危ぶまれているディスプレイ事業の危機を救う大きな貢献をしたと、部長クラスがオフレコで言っていた。重要な機密事項に触れるからだろう。そうしたことはあまり大っぴらには語られないようだ。
 そのせいなのか、亮平は前部署時代のことを語ろうとしない。というより、早穂子がそれについて質問すると亮平は露骨に不機嫌になるので、怖くて触れられないのだ。二、三度そんな目に遭うと早穂子も懲(こ)りて口にしないようになったが、彼のあの態度は疑問だ。
「海外からのエリートかぁ。フリーだといいなぁ」
 正面の席では由希が期待に目を輝かせている。失恋から二か月、少しずつ立ち直ってきたのかなと早穂子の頬も綻んだ。恋愛に慎重な早穂子と違い、由希は元彼との交際以前は恋多きタイプだった。華やかな顔立ちに加え、何とも言えない色気がある。
「フリーなら狙っちゃおうかな」
「イケメンだったらどうするの? 由希はイケメン嫌いなんでしょ」
 早穂子がからかうと、由希は「忘れたなぁ」と笑った。


 翌日の夜遅く、早穂子はアパートの部屋で亮平を迎えていた。
 亮平が入ってくると、小さな玄関は彼の存在感に支配される。亮平が纏(まと)う高級ブランドの主張の強い香りは彼によく似合っていた。
「遅くなって悪い」
「いいえ。お疲れ様です」
 早穂子ははにかみながら亮平を見上げた。恋人としての時間であっても早穂子の口調は昼間の関係そのままで、なかなか敬語が抜けない。
「ご飯、まだだったら用意しますね。簡単なものですけど」
「昨日の埋め合わせにどこか連れて行くはずだったのに」
「課長は忙しいから……こうして寛(くつろ)いで会えるのも嬉(うれ)しいです」
 亮平は仕事や他の予定を優先することが多く、二人きりで会う頻度はさほど高くない。出世頭の亮平なら早穂子の及び知らない任務を多く抱えているはずで、部下だからこそ理解ある恋人でいなければと思う。
「可愛いこと言ってくれるな」
 頭を撫でられた早穂子は頬を染めた。職場では敢(あ)えて距離を置いているので、二人きりになった時はちょっとしたことでも照れてしまう。
「まあ結婚したら毎日一緒だしな」
 亮平は寛いだ調子で笑い、ネクタイを緩めながらリビングへと入っていった。
 亮平の食事を手早く整え、自分にはハーブティーを淹(い)れてテーブルに着く。
 学生時代からきちんと丁寧に自炊してきた早穂子は料理が得意だ。しかし和食のおばんざいが中心で、新進気鋭のシェフによる話題店などを好む亮平が気に入ってくれているかは自信がない。
 案の定、亮平は主菜は平らげたものの副菜の小鉢には手をつけなかった。
(お洒(しゃ)落(れ)な料理とか習った方がいいかな……)
 少し落ち込みつつ、亮平との結婚に備えてそんなことを考えていた早穂子は正面から飛んできた質問で我に返った。
「もうじき中途採用者が来るのは聞いてるか?」
「はい」
 由希が言っていた件だろう。今日の昼間にも一課の同僚たちが熱心に噂(うわさ)しているのを聞いたばかりだ。由希の話の通り、今度やってくるのはとびきりのエリートらしい。
「二課の配属だから早穂子に直接の関係はないけどな」
「そうなんですね」
 取るに足らないことのように亮平はさらりと続けたが、どこか遠くを睨(にら)むような視線は鋭い。何となく空気を読んだ早穂子は所属先だけでなくすでに年齢や評判まで詳しく噂が回っていることは言わずにおいた。
 剛胆な態度でカモフラージュされているが、亮平は勝つことに執着する男だ。由希が期待するように着任前から話題をさらうその男と亮平が拮(きっ)抗(こう)関係になることは間違いなく、嵐の予感に早穂子まで身構えてしまう。
「アメリカのトップ企業にいた男らしい。でもアメリカと日本ではまた話が違う。まあお手並み拝見だな」
 否定的なニュアンスと強気な言葉にはやはり亮平の強い対抗心が滲(にじ)み出ている。
「目移りするなよ」
「目移りなんかしません」
 早穂子はにっこり笑って即答した。亮平が見せている独占欲が自分というより部内の覇権に向けられていることはわかっていたが、早穂子にとって恋人であり婚約者である亮平を裏切るなど考えられなかった。


 翌週の月曜、その日の総合企画本部の部屋はいつもと違う妙な緊張感に包まれていた。四月に入った新年度初日ということだけではなく、ここのところ密(ひそ)かに話題の的になっていた人物がついにやってきたからだ。
 ガラス張りの会議室には総合企画本部長、各部の部長、そして男が一人。こちらに背を向けているので風貌はわからない。朝一番から会議室に入っているらしく、いつも早めに出勤する早穂子が来た時にはすでにミーティングが始まっていた。新しく着任する海外からのエリートがいったいどんな人物なのか、誰もがそわそわしながら仕事を始めている。
 会議室からは時折和やかな笑い声が響いていたが、みんなの期待をよそになかなか出てくる気配はない。朝礼の時刻を知らせる音楽が鳴ると、ようやく切り上げられた。
 あらかじめ朝礼で挨拶するよう言われていたらしく、アメリカからの着任者が前に進み出る。知的で清雅な印象の顔立ちによく合う、落ち着いたやわらかな声だった。
「芹沢(せりざわ)遥(はる)人(と)と申します。半年前までアメリカのゼネラルサイエンス社でディスプレイ事業に携わっていました」
 女性社員たちの食い入るような熱い視線、男性社員たちの品定めするような視線。そうした様々な視線を浴びながら、芹沢遥人は淡々と自己紹介を始めた。
 背丈は亮平と同じぐらいだろうか。亮平のようにがっちりとした印象はなく、適度に細身だ。奥二重の涼しげな目、知性を示すようなすっきりと通った鼻筋、自然に整えられた癖のない黒髪。穏やかながら淡々とした口調と同じく、風貌もクールだ。しかし目立つ特徴はないのに妙に印象に残る男。それは底知れぬ湖の水面(みなも)を思わせる彼の瞳の静けさのせいかもしれない。
 遥人の自己紹介の間、早穂子は亮平の手前あまり見ないようにしようと思いつつも、微笑を浮かべる彼の顔からなぜか視線を外せずにいた。
 朝礼が終わると遥人は各部門に挨拶しにやってきた。一課で真っ先に進み出たのは亮平だ。自己紹介で遥人はディスプレイ事業に携わっていたことを明かしたが、亮平も堤電機のディスプレイ事業部出身だ。海外という自分より大きなステージからやってきたとなると、亮平のライバル意識は相当なものだろう。しかし遥人を前にすればそれはおくびにも出さず、にこやかに挨拶を交わしている。
 他の社員たちも早速お近づきになりたくてうずうずしているようだったが、早穂子は自分から挨拶しに行くつもりはなかった。直属の上司ではないし、さほど関わることはないだろう。
 しかししばらくその場の空気に合わせて遠巻きに眺めてから、そろそろ席に戻ろうと考えた時、すぐ近くの社員と談笑していた遥人がちらりとこちらに視線を向けた。
(え……)
 早穂子の心臓がまるで鼓動を一つ飛ばしたかのように跳ねた。早穂子の顔を見た時、それまで静かだった遥人の視線が一瞬強くなった気がしたのだ。しかし初めて会う相手なのに、そんな風に感じるのは自意識過剰というものだろう。
 早穂子が内心でそう打ち消していると、遥人が口元に笑みを浮かべてこちらにやってきた。こうなったら挨拶しないわけにはいかない。
「……あの、一課の小谷早穂子と申します。よろしくお願いします」
 細身に見えたが、間近に立つと恵まれた男性らしい体格が際立って感じられる。心ならずも動(どう)悸(き)が激しくなるのを感じ、早穂子はその不可解な反応を抑えようと努めながらおずおずと顔を上げた。ぱりっとしたブルーのシャツから紺色のネクタイへ、それから端正な顔へ。
「芹沢遥人です。小谷早穂子さんですね。どうぞよろしく」
 遥人と目が合った瞬間、早穂子は吉凶のわからない直感めいたざわめきが背筋を這(は)い上がる感覚に襲われた。涼やかな目でじっと見つめられると心臓を掴(つか)まれたように身動きが取れなくなる。
 この胸騒ぎは何だろう? 遥人から視線を剥(は)がし、早穂子は慌てて一礼すると逃げるように席に戻ったのだった。


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