書籍詳細
今生こそは、あなたと ~生まれ変わりの次期侯爵は愛しい妻を手放せない~
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2024/11/29 |
内容紹介
立ち読み
序章
カレンディア王国は、英雄によって救われた国である。
――それは、この国に生きる者であれば、誰もが知っている歴史だ。
遠い、遠い昔……この国には、悪政によって多くの民が苦しめられていた時代があった。
その原因となったのは、特権階級の享(きょう)楽(らく)的(てき)で贅沢な生活である。
重い税に苦しむ国民は、次第に政権への憎しみを募らせ、国の根幹が揺らいでゆくことになる。
なかでも国民の憎悪を一身に集めたのは、“王太子妃ラディナ”であった。
贅沢を愛した彼女は、豪(ごう)奢(しゃ)なドレスや宝石に目がなく、国費を湯水のように使ってその身を飾り立てたという。
その上、彼女は賭(か)け事に狂い、さらに財政を圧迫した。
王太子妃でありながら奔放に男遊びを繰り返しているという噂(うわさ)も、国民から激しく嫌悪される要因となった。
怒り狂った民衆は、やがて各地で反乱を起こすようになる。
王族のあまりの横暴さに、国を守る立場であった騎士団の一部までもがついに反旗を翻し、彼らは民衆と共に反乱軍を結成する。
その先頭に立ったのは、騎士団の長を務めていた、ギルベルト・フォルシュタインである。
ギルベルトが率いた反乱軍は、民衆に容赦なく攻撃を加える王立軍と幾度も衝突しながらも、次第に勝利の回数を増やしていった。
やがてその反乱軍によって、離宮に幽閉されていた王弟が救出され、保護される。
この王弟は、王族の中でただひとり、国を憂いて王に異を唱えた人物だった。
そのために国王の怒りに触れ、僻(へき)地(ち)の離宮へと幽閉されていたが、長きにわたる幽閉生活も、彼の心を折ることは叶わなかった。
民のための政治を行わなければ、と考えるその心はまさに王座に相応(ふさわ)しく、人々はこの王弟の救出に、希望を見出す。
国民を苦しめる現政権は不要だという声が高まり――ついに、暴徒化した民衆と反乱軍による、王城襲撃事件が起きた。
この襲撃事件の際、国民を苦しめた王族や高官は次々に斬り捨てられ、王太子妃ラディナも、殺害されている。
悪辣な王族は滅び、稀(き)代(たい)の悪女も命を絶たれた。
この衝撃的な出来事に国民は歓喜し、反乱軍を率いたギルベルトは、救国の英雄であると称えられた。
こうして革命が起きた後、保護されていた王弟が即位すると共に、ギルベルトは軍の最高司令官である元(げん)帥(すい)の地位を得る。
彼は、新国王を支えながら国の体制を立て直すことに尽力し、時には自ら戦(いくさ)の前線に出て、外敵を薙(な)ぎ払った。
当時、国内の状況が非常に混乱していたにも拘(かかわ)らず、他国からの侵略を防ぎきり、カレンディアが独立を保てたのは、この英雄の活躍があってこそである。
新国王のもと一新された政治体制によって、国は再生され、今日(こんにち)の実り豊かなカレンディア王国の繁栄へと繋(つな)がってゆく。
ギルベルト・フォルシュタインは英雄として称えられ、彼こそが、まさにこの国の救いであったと――多くの歴史書には、このように記されている。
第一章 冷たい婚約者
夢を、見た。
これまでに幾度となく見た夢と、同じものを。
それは血に濡れた刃(やいば)が、この身に振り下ろされそうになる光景だった。
すべてを諦めて目を閉じようとしたそのときに、叫び声が鼓膜を貫くのだ。
『だめだ! その人を殺すな――!』
「やめて……!」
フォンティオール子爵家の令嬢、リゼットは、自分の叫び声で目が覚めた。
喉が震えて、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返している。
(ああ。また、あの夢を……)
汗で前髪が貼りついた額に、震える指でそっと触れた。
ふうと長い息を吐き出して、呼吸を整える。
何度夢に見ても、自分が殺されそうになる場面というのはショックが大きい。
――それが実際に起きたことであるから、なおさら。
リゼットは寝台の上で、静かに身体を起こした。胸もとをそっと撫(な)で、それから自らの腕で身体を抱きしめるようにして、きゅっと力を込める。
(だいじょうぶ……私は、生きてる。今の私は……リゼット。ラディナではないわ)
同じ夢を見る度に、何度も自分に言い聞かせてきたことを、もう一度、繰り返す。
リゼットは、おそらく前世の記憶だろうと思われるものを持っていた。
それも、歴史の中で稀代の悪女であったとされている、ラディナ妃の記憶を。
彼女がそれに気づいたのは、八歳のときだった。
家庭教師と勉強していたとき、“歴史に名高い悪女・ラディナ妃”の話題が始まった途端、頭の中にぶわっと濁流のように記憶がなだれ込んできたのだ。
するとそれまで眠っていたものが一度に目覚めたように、ラディナ妃の一生分の記憶がリゼットを呑(の)み込み、あまりの情報量の多さに、彼女は失神してしまった。
そしてそのまま三日間、高熱を出して寝込んで……目が覚めてからは、一度解き放たれた記憶は消えることなく、彼女の心身に根付いてしまったのだった。
歴史の教科書のどこを見ても記されていないような事柄がいくつもいくつも、鮮烈に思い起こされて……とてもそれをただの妄想だなんて思うことはできなくて。
ああ、きっとこれは自分の前世の記憶なのだと――リゼットはそう、理解するしかなかった。
それ以来リゼットは、今夜のように前世の記憶を夢に見ることも少なくなかった。
ラディナの人生は……幸福なものだったとは決して言えない。
幸せだと、そう感じた時間だって確かにあったはずなのに……リゼットが夢に見るのは、胸が痛くなるような出来事ばかりで。
そんな夢を見てしまったときリゼットは、泣きながら目覚めることも多かった。
「……だめね」
ぽつりと呟いてからリゼットは、はあと、重く息を吐き出した。
何度同じ光景を夢に見ても、慣れることなど決してない。いつもいつも、引き裂かれるような痛みと、どうしようもない悲しさで胸がいっぱいになってしまう。
こんなふうに目が覚めてしまっては、もう一度眠ることはできないだろう。
それでも――。
彼女はふるっと軽く頭を振ると、その身を横たえて、もう一度寝具にくるまった。
明日は大事な来客があるのだ。リゼットにとって……というよりも、このフォンティオール子爵家にとって大事な来客が。
睡眠不足でやつれた顔では、両親にも心配をかけてしまうだろう。
今日の昼間、父から聞かされた『縁談』が、リゼットの胸をぎゅっと締め付けた。
(結婚なんて……したくないわ)
だってリゼットには……どうしても、忘れられない人がいるのだ。
もう決して、会うことの、叶わない人。
かつての自分が、どうしようもなく傷つけてしまった、大切な人――。
その人の言葉が、想いが、瞳が、声が……深く深く、今もこの胸に焼きついている。
こんな想いを抱えたまま、他の誰かとの結婚など、考えられるはずもない。
(結婚も、恋も……私は……したくない……)
リゼットはきゅっと固く、瞼(まぶた)を閉じた。
瞼の裏の暗闇がもう一度、眠りへと誘(いざな)ってくれることを、祈りながら――。
その翌日、リゼットはフォンティオール家の応接室で客人と向き合っていた。
「あの……もう一度、言っていただけますか?」
リゼットは目の前にいる青年に向かって首を傾(かし)げた。
たった今、彼に告げられたことが理解できなかった。
「君と、本当の夫婦になるつもりはない」
いっそ冷徹とも思えるほどにあっさりと、その人は同じ言葉を繰り返した。
彼の名は、クロード・ハルフォード。
ハルフォード侯爵家の嫡男で、年はリゼットよりも六つ上の二十五歳だと聞いている。
王城にて税務管理官の職に就いているというこの男性は、リゼットの婚約者となる予定で、顔合わせのために今日ここへ来たはずだった。
「あの……」
リゼットは戸惑いながら尋ねた。
「このお話は……ハルフォード侯爵家から直接申し込まれたと、父から伺っておりますが……」
この国の貴族社会では、伯爵位以上とそれよりも下位の家柄では、身分に歴然とした差がある。
かなり格上にあたる侯爵家からの縁談を、リゼットの生家であるフォンティオール子爵家が一方的に断ることは難しい。
だからこそ、リゼットは拒否もできずに、今日この場で彼を迎えたのだ。
けれど彼は、応接室で挨拶を済ませるなり、リゼットの両親に「彼女とふたりで話をさせてほしい」と願い出て、人払いをした。
部屋の扉は少し開いているので密室ではないが、初対面の男性とふたりきりという状況に、リゼットは多少なりとも戸惑いを覚えていた。
そんなリゼットに彼は、きっぱりとした口調で「申し訳ないが……君と本当の夫婦になるつもりはない」と告げてきたのだ。
これは一体、どういうことなのか――。
「この縁談に乗り気なのは、私の両親だ。私自身は……生涯、誰とも結婚など、したくなかった」
長い手足を組んだまま、ソファに身を預けて、彼は言う。
まるで、今ここで、こうしていることすら面倒だと言わんばかりの口調だった。
切れ長の目に宿る、澄んだ青い瞳。
鼻筋の通った顔に、サラサラとした銀髪を首の後ろで括(くく)っている姿は、凛(りん)として美しい。
その整った容姿が、社交界でも多くの人の目を惹きつけているのは周知の事実だ。
けれど、澄んだ色のその瞳は、今目の前にいるリゼットを映してはいない。
いや……まるでこの世界そのものに、興味がないような冷めた目をしていた。
リゼットは、膝に置いた自分の手をぐっと握り締める。
「……でしたら」
声が震えそうになったが、堪(こら)える。
「なぜ、私なのでしょうか? 他にどなたか……もっと条件の良い縁組があったのでは……?」
舞踏会や王城のパーティーで、多くの女性が頬を染めながら彼の周りに集まっているというのは、有名な話だ。
社交の場が苦手なリゼットは、舞踏会や夜会への出席をできるだけ避けていたので、彼と話したことはなかった。それでも数回、渋々参加した夜会で、彼が女性たちに囲まれている姿を遠目に見たことがある。
もっと身分の高い相手でも、絶世の美女でも――彼は選び放題のはずだ。
なのになぜ、これまで一度も視線を交わしたことすらないリゼットなのか。
クロードは、はあ、と大げさにため息を吐いた。
「ブリュノイ伯爵夫人を……知っているか?」
「え……あ、はい。存じております」
突然、話の行方が見えなくなってリゼットは戸惑った。
ブリュノイ伯爵家といえば……以前、父に連れられて、邸宅で開かれる晩(ばん)餐(さん)会(かい)に出席したことがあった。
本来は父と母が招かれていたのだが、その日にたまたま母が体調を崩したため、リゼットが代わりに出席することになったのだ。
主催者である伯爵家の夫人とも会話をした気がするが、そこまで親しいわけではない。
ただ……その晩餐会で供された料理はどれも絶品で、口に運ぶたびに非常に幸せな気持ちになったことは、覚えていた。
「彼女は、私の母方の叔母なんだ」
「はあ……」
「叔母は今、占いの真似事にはまっている。……そして彼女が言うには、君と私の相性が、信じられないくらい、ぴったりなんだと」
「……は?」
突拍子もない話すぎて、どう反応していいのかわからない。
クロードは苦々しい顔をしながら、続ける。
「それも運命の相手としか思えないほど、なんだそうだ。それを聞いた私の両親が、喜び勇んで君に結婚を申し込んだ――と、いうわけだ」
「……そう、ですか」
クロードは、くっと口の端を持ち上げて、忌々しげに言った。
「ばかばかしいだろう?」
「そうですね」
間髪を容れずに返すと、ふと、彼がこちらに視線を送ってきた。
そして、かすかに目を見開く。
「君の瞳は……紫、なのか」
ぽつりと、呟(つぶや)くようなその声に、毒気は一切ない。ただ驚いて、こぼれ落ちたような声だった。
しかし彼はすぐに、片手で己の目もとを覆ったかと思うと、重いため息を吐き出した。やがてぽそりと「よりによって……」と呟く声まで聞こえてくる。
そんな彼の態度に、リゼットはわずかに眉を顰(ひそ)めた。
この部屋で顔を合わせてから今のこの瞬間まで、彼は自分の顔さえまともに見ていなかったのだと思い知る。本当に……なんて、ひどい縁談だろう。
だけど――それよりもリゼットが気になったのは。
彼がこぼした、ため息の理由だ。
紫の瞳は、この国ではあまり多くはない色味だった。特にリゼットのように、深い紫の瞳は珍しい。
とはいえ、あり得ない色というわけではなく、一定の確率で紫の瞳を持つ赤子は、この国に昔から生まれていた。その子孫も紫に近い色味の瞳を持つことはあるけれど、世代を経るごとに色は薄くなり、すぐにまた、違う色の瞳を持つ子どもばかりが生まれるようになる。
そうして何世代も後にまた、突然その家系に紫の瞳を持つ子どもが生まれるのだ。
かつては、生まれる数が少ないこともあって「魔力を持っている」とか「人を惑わす」「不幸を呼ぶ」などと謂(いわ)れのないことを言われ、蔑(さげす)まれた時代もあったが、今ではほとんど気にする人はいない。
ただ、伝統を重んじる上位貴族の一部や、年(とし)嵩(かさ)の世代にはまだ、紫色の瞳を忌(き)避(ひ)する風潮がわずかに残っていることも、否めなかった。
――『気持ち悪い目で、俺を見るな』
ずっとずっと昔、とある人物から投げつけられた言葉がふいに脳裏に甦(よみがえ)り、リゼットの心臓を冷やしてゆく。今この場でクロードもまた……あんなふうに嫌悪に満ちた目を、リゼットへと向けるのだろうか。
かたかたと指が震えそうになり、ドレスをきゅっと握りしめた。
「あの……すみません……お見苦しかった、でしょうか?」
俯(うつむ)いて、ようやくそれだけを呟くように言うと。
「いや、――ああ、違う」
一瞬、かすかに驚いた声をあげたクロードが、己の発言を訂正するようにこう言った。
「違う、すまない……そんな意味ではないんだ。私は、その……綺麗な色だと、思っている」
その言葉に、リゼットは驚いて顔を上げた。
こちらを見据える青い瞳と、真正面から視線がぶつかって、どきりと胸が音を立てた気がした。
クロードはリゼットの目を見つめて……それからふと、気まずそうに視線を外した。
「ずっと昔……」
クロードは、ぽつりと。無表情のまま、呟くように言った。
「よく似た色の瞳を持つ人を、知っていた。その人とは……もう会うこともできないが……」
それからはっきりと、リゼットの耳に届く声で、彼は言う。
「君の目も。その人の目も。……綺麗な色だと、私は思う」
さっきまで凍えていた心臓がとくりと動いて、胸の中があたたかくなってゆくのを、リゼットは感じていた。
(……変な、人)
縁談を申し込んでおきながら、こんなひどい態度で。
ばかばかしいと自ら吐き捨てるように、結婚について語りながら。
そんな、心を揺らされることを言われたら……どうしたらいいのかわからない。
自分の胸の内でかすかに震える何かをなだめるように、リゼットはそっとちいさく息を吐いた。
「その……形だけの結婚を、お望みということでしょうか?」
そう尋ねると、彼は一瞬、短く息を吸い込んだ。それから重たげな声で「……ああ」とだけ、答えが返ってくる。
「具体的には、どのような結婚生活をお望みですか?」
リゼットのその質問に、彼は気まずげに目を逸らしたまま、答えた。
「そう、だな……結婚するならば、いずれ侯爵家の女主人となる君の立場は保障するつもりだ。家の恥にならないようにさえしてくれれば、君の交友関係に口を出すつもりはないし、買い物や外出も、予算内ならば自由にすればいい。――その代わり私にも、なるべく関わらないでほしい」
つまり、お互いに不干渉でいたい、というわけだ。
「外出も……好きにして、よろしいのですか」
思わず聞き返したのは、それがリゼットにとっては大事なことだったから。
身分のある家の夫人になったからといって屋敷の奥でひっそりと暮らす生活なんて、とても耐えられない。
「ああ、好きにするといい。――君がどこに出かけようと、興味はないよ」
さらっと言われた言葉があまりにも酷くて、リゼットはいっそ笑い出したくなってしまう。
本当にこの人は……無関心を、隠そうともしない。
さらに彼は、言いづらそうにしながら告げた。
「悪いが、君と……男女の関係になるつもりも、ない」
どこか申し訳なさげに、だがきっぱりと、彼はそう言った。
なるほど。本当に形だけの結婚を、彼は望んでいる。
「子どもは、どうするおつもりですか?」
彼の両親が結婚を望むのは、後継のことも考えてだろう。
夫婦関係を持たないなら、子どもを授かることはない。彼はどうするつもりなのか?
しばらく黙ったあとで、クロードが静かに告げた。
「必要ない。……どうしても跡取りが必要であれば、他家に嫁いだ姉の子をひとり、養子に迎えてもいい」
「そうですか……」
彼の話によれば、早くに他家に嫁いだ彼の姉はすでに五人の子持ちで、そのうち四人が男児だそうだ。いざとなれば、養子に迎えることも可能だと言う。
ただ、現在の跡取りである彼が結婚さえしていないのは、あまりにも外聞が悪い。そのため両親に、せめて結婚だけはしてほしいと乞(こ)われているそうだ。
リゼットは一度、そっと顔を伏せて、考えた。
こんな縁談は、あまりにも失礼だ。彼の態度だって、酷(ひど)すぎる。
だけど――。
(そうね、もしかしたら私には……ちょうどいいのかも)
ふと、そんな考えがリゼットの頭をよぎる。
リゼットだって――叶うなら、誰とも結婚などしたくはなかった。
だけど貴族の娘がいつまでも実家にいるわけにはいかないことも、彼女は充分に理解している。
このまま自分がどこにも嫁がずにいれば……家を継ぐ弟の縁談にも、影響が出てしまうかもしれない。
どうしても誰かと結婚をしなければならないのなら――彼の提案は、むしろリゼットには有り難いではないか。
そう思ったら、どこか安(あん)堵(ど)にも似た気持ちが、胸の内に静かに広がった。
すっと背すじを伸ばして、リゼットは顔を上げる。
「わかりました」
「え……」
リゼットがそう答えるとは思っていなかったのか、クロードの声に戸惑いが混じる。
「君はそれで……いいのか?」
「ええ。構いません」
きっぱりと返事をすれば、何故かクロードは困ったような顔をする。
自分からこんな酷い話を突きつけてきたのに変な人ね、とリゼットは思う。
「私からもお願いがあります。よろしいですか?」
「あ、ああ……」
リゼットはそっと息を吸って、告げた。
「寝室は別にしてください。私は屋敷の隅で構いませんので……できれば離れた部屋で休ませていただきたいと思います」
どうせ男女の関係にはならないのだ。寝所が別でも問題ないだろう。
しかし、彼がこれには渋い顔をした。
「……夫婦関係を持たないと言っても、それを周囲に知らしめたいわけではない。部屋を離すことで、あらぬ噂の種になるのは、ごめんだ」
「そうですか……」
リゼットはしょんぼりと俯いた。
確かに、屋敷の使用人や、彼の両親には、不審に思われるかもしれない。噂話というのは、どこから広まるかわからないものだ。
結婚したのに夫婦仲が良好でないなどと噂が流れてしまっては、不名誉だろう。
「なぜだ?」
「え?」
「部屋を分けたいという要望はまだしも……なぜ離れた場所で眠りたい?」
リゼットの要望が理解できないという顔をして、彼は言う。
正直に話そうか、適当に誤魔化そうか悩んだが、この失礼な人に対して、今さら取り繕わなくてもいいかと思った。
「私、その……少々、悪夢にうなされることがありまして」
「悪夢?」
ぴくりと、クロードが形のいい眉を片方、跳ね上げた。
リゼットは少し俯きながら、言葉を続ける。
「ええ……。それで、夜中に泣き叫びながら起きてしまうこともあるので……うるさくて、ご迷惑になるかもしれません」
彼の迷惑になりたくないというのも本音ではあったが、夢にうなされて変なことを口走らないかも、心配だった。
前世に関することなど、なるべくなら、他人に聞かれたくはない。
そう思って顔を上げたとき、リゼットは驚いた。
悪夢にうなされるなど、子どもでもあるまいし……と、馬鹿にされるかと思っていた。
けれどクロードは、とても真剣な、痛ましいものを見るような目線で、リゼットを見つめていた。
「そうか……それは、辛いだろう」
「え……ええ……」
青い双(そう)眸(ぼう)に、真正面から見つめられて、頬が熱くなる。
鼓動が速い気がするのは、気のせいだろうか。
「実は……私も、時折、悪夢にうなされる。だから……君の気持ちはよくわかる」
先ほどよりもずっと柔らかい声音で言われて、リゼットは瞳を瞬(またた)いた。
(この人……こんな話し方もできたのね)
クロードはそっと息をつくと、革張りのソファから立ち上がった。
「わかった……婚礼からしばらくは主寝室を使ってもらうことになるが、その後は、君は隣の部屋で寝るといい」
主寝室の隣といえば、妻のために用意される部屋だろう。
確かに、夫と共寝しないのであれば、そこをリゼットが使うのは当然だ。
しかし――。
「でも、あの……隣部屋では、やはりご迷惑に……」
「悪夢にうなされて飛び起きたときに、屋敷の隅でひとり震える時間を過ごそうというのか? あいにく私は、そこまで非情な夫になるつもりはないぞ」
その言葉に、リゼットは眉根を寄せた。今日この場で、さんざん失礼な態度をとっておきながら、彼は一体何を言っているのか。
いっそ嫌味のひとつでも言ってしまおうかと口を開きかけて――リゼットには、それができなかった。
彼の大きな手が、ぽんと、彼女の頭に触れたから。
「酷い夢を見たときは、誰かがすぐに駆けつけられる場所にいたほうがいい。夜中でも対応できるよう、使用人にも言っておくから」
予想外の優しい言葉に、リゼットの瞳が揺らぐ。
彼が――クロード・ハルフォードが、一体どういう男なのか、このときのリゼットにはさっぱりわからなかった。
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