書籍詳細
香りで誘って、指先で合図して
定価 | 1,320円(税込) |
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発売日 | 2025/01/31 |
電子配信書店
内容紹介
立ち読み
第一話 オープニング
ストレスを誤魔化すためのカフェインは、一時間前にはなくなってしまった。
テーブルの下では落ち着かない両手を何度も組み直している。こんなことなら空気なんて読まずに、アメリカンじゃなくてエスプレッソにしておけばよかった。
初夏の土曜日の午前。気温が上昇するのと同じペースで美(み)咲(さき)は苛立(いらだ)っていた。
生理前だからとか、ホルモンバランスの乱れだとかは関係ない。これが現実だと理解しなければいけないし、受け入れなければ前には進まないとわかっている。
それでも、目の前に座る小太りの男から向けられる目線と香りには、到底耐えられなかった。落ち着こうと息を深く吸うたびに不快感が積もっていく。
「いやぁ、女の人と話すのがこんなに楽しいと思うのは初めてでした」
「光栄です」
苛立つ美咲とは裏腹に男は終始饒(じょう)舌(ぜつ)だった。会話の八割が男の仕事や趣味の話なのだ。楽しいに決まっている。
謙遜はせずに美咲はニッコリと笑った。どれだけこちらがこの二時間全神経を使っていたのか、この男はわかっていない。何を話しても笑顔を崩さない美咲に、男は気恥ずかしそうに言った。
「是非……もう一度お会いしたいです」
「ありがとうございます。今日のことも含めて相談所を通してお返事しますね」
「はい、よろしくお願いします」
美咲は商談のように笑顔のまま答えた。
駅まで送りますという男の申し出を、実は今から急きょ会社に行かなければいけなくなってしまって、と言ってタクシーを呼ぶ。
それじゃ、と美咲はタクシーの中から男に会釈をした。最後まで笑顔を崩さないのはマナーであり、プライドだ。
バックミラーに映る男の姿が見えなくなったところでようやく、美咲は大きく息を吐いた。
「はあぁぁ……疲れたぁ……」
職場の先輩から紹介されて結婚相談所に登録したはいいものの、紹介されるたびに美咲は打ちひしがれていた。
今日で会うのは五人目。こうして脱力するのも五回目。
美咲はお見合い相手を紹介されるたびに、自分が結婚向きではないことを思い知らされている。
紹介される相手の条件はいつも申し分ない。むしろ自分には勿(もっ)体(たい)ないくらい好条件の男もいた。しかし美咲は、どうしても譲れない条件が実際に会った瞬間に初めてわかるのだ。
「セックスしたいって思う匂いじゃないんだよ……」
大手菓子メーカーの商品開発室で働く美咲は、子どもの頃から味覚や嗅覚が良い。今の仕事はある意味天職で、その精度にも磨きがかかっている。
人間にももちろん人それぞれ香りがある。香水、整髪料、ボディソープ、洗濯洗剤、食べた物……全ての残り香がその人を作っている。
美咲は会った瞬間にわかるのだ。この香りとは――この男とはセックスはできない、と。
おそらく一般的な女性にも似たような判断力がある。いわゆる生理的に無理、という言葉がそれにあたるだろう。
美咲の場合は、それがより明確にわかるのだ。そして今の美咲にとってセックスは、なくてはならないものだった。
「さっき飲んだコーヒー、豆の産地違うんじゃないかな……」
タクシーの窓に頭を預けながらポツリとつぶやく。
コーヒー豆の匂いは好きだ。どんなに疲れていても頭と気持ちをリセットさせてくれる。自分好みの香りの豆を探すうちに詳しくなった。
美咲は先ほどのコーヒーの香りを考えながら、気がつけばある男の残り香を思い出していた。
香りの記憶は重ねた経験を呼び起こして美咲の中のスイッチを入れる。
会社の一階受付横のゲートを社員証を当てて通り過ぎる。自分のデスクがある部屋へ入ると、数人いる同僚の向こう側、一番奥の壁際に、同期である西(にし)野(の)一(かず)樹(き)の背中が見えた。
いた。今来たのか、これから帰るのか、どっちだ?
開発員は試作室にいることが多い。理科室や家庭科室のような作りで薬品や材料、器具等が常備された部屋だ。デスクワークの量は他の部署よりも少ないため、いつも自分の机に座っている訳ではない。
その上、美咲の部署は管理職以外の全員がフレックスタイム制で働いている。出勤する曜日も、時間も、開発チームや人によってバラバラだから誰がいつ出勤しているのか来てみないとわからない。
このタイミングで会えたのはラッキーだ。
「西野、お疲れ。土曜に出勤なんて珍しいね」
美咲は自分の机に荷物を置くと、西野が座る机の横を通り過ぎながら聞いた。話しかけられた西野が顔を上げる。
「ああ、お疲れ。今日はたまたま。高(たか)橋(はし)は今出勤?」
「ちょっと用事を済ませてきたの」
美咲はさりげなく西野の机に右手の指先を置くと、中指をトン、トン、トン、と三回弾ませた。
その指先を、西野は横目で見る。
「……そういや、春季商品のプレゼン日が決定したらしいぞ」
西野はそう言いながら、持っていたボールペンを置くついでに中指を机の上で弾ませた。ゆっくりと、三回。トン、トン、トン。
「へぇ、今年は決まるの早いね。頑張らなきゃあ」
交渉成立だ。少々棒読み過ぎたかも、と自嘲しながら美咲は自分のデスクへ戻った。
美咲も西野も、仕事中は用件がない限り話すことはない。席も離れているから雑談もほとんどしない。だからこうして声をかけること自体に意味がある。
夕方になって周囲に「お先に失礼します」と言いながら部屋を出るとき、背中に視線を感じた。心の中で「またね」と手を振って、約束の時間まで美咲はカフェで時間をつぶした。
二十時。いつも降りる駅を二つ過ぎたところで、美咲は電車を降りる。
駅から十分ほど歩いて裏通りに曲がり、暗いビル街を歩く。後ろをついてくる足音を確認しながら小さなビルに入り、パネルを押した。
エレベーターには、男が一緒に乗ってきた。部屋の扉を開けて中に入り、振り返って自分についてきた男を招き入れる。
少し背の高い男の頬に両手を伸ばして、そのまま自分に引き寄せた。男の腕も自分の身体に絡む。美咲が薄い唇に舌で割り入り、歯列をなぞりながら吸いつくと、すぐに肉厚な舌が応えた。
「んっ……」
舌を絡ませながら、鼻で息を吸って男の匂いを堪能する。ああ、この香りだ。これから何をするのか覚えきった身体に火が灯る。
薄く目を開けると男の鋭い視線が突き刺さった。この見下ろす目がたまらない。自分は今からこの男と互いを食って食われるのだ。口の端から溢(あふ)れる唾液はあとで男が舐(な)めてくれるだろう。
頬を撫(な)でていた両手を滑らせ、男のシャツに手をかける。ネクタイのない季節は脱がせやすくていい。あれで縛られるのは嫌いではないけれど。
性急にワイシャツのボタンを外していくと、唇が離れて代わりに低い声が降ってきた。
「イラついてんなぁ、美咲。そんなに嫌な匂いの人だった?」
噛みつく動物を手なづけるように西野が訊ねる。
少し気(け)怠(だる)そうな雰囲気は、仕事中とは別人だ。はだけたシャツから見える肌はほどよく筋肉質でとても研究職とは思えない色気が溢れている。数時間前と比べたら詐欺だ。
なされるがままにはだけた西野は、シャツを握りしめる美咲を呆れたように見下ろしていた。
「最悪だった」
美咲は不満を隠さずに辛辣に答えた。同時に数時間前の思い出したくもない香りが蘇(よみがえ)る。汗と整髪料と……おそらく柔軟剤の香りだろう。全部がバラバラで、そこに煙草(たばこ)の残り香が加わって美咲には拷問に近かった。二時間耐えた自分は偉いと思う。
昼間の記憶を消すように、西野の首筋に顔を当てて大きく息を吸った。相変わらずいい匂いだ。
美咲の答えに西野の口の端が上がる。長い指で丁寧に美咲の髪をほどきながら揶揄(からか)った。
「何人目だよ。もう諦めたんじゃないの?」
「諦めてない」
美咲はぱっと顔を離し、目を見て毅然(きぜん)と抗議した。そんな美咲に、はいはいわかりましたと西野は再び口を塞ぐ。美咲の顎を指でツッと上に向けて舌を吸い、溢れた唾液を舐めた。
「あっ、ふぁ、んっ……」
美咲が漏らす声に西野は目を細めて愛撫を繰り返す。頬や首筋をたどる指先が熱くてぞわりとした。
声は我慢しない。煽(あお)って煽られて、そうしてお互いの欲望を吐き出すのだ。
美咲のカットソーを脱がせて下着を露(あら)わにすると西野は美咲を抱えてベッドまで運ぶ。真っ白なシーツの上に転がされ、白い肌が明かりに照らされた。
「初めて見るやつだな。いいね。AVみたい」
「買ったばっかりだもん」
今日は真っ赤なブラだ。色白の肌が際立っていた。西野は繊細なレースを撫でながら背中のホックに手をかけ、茶化すように笑う。
「まさか勝負下着? 今日の人ともう寝るつもりだったとか?」
「違うわよ」
気合いを入れるためだ。下着は女の戦闘服で男を喜ばせるためのものではない。的外れだと冷めた顔で返しても西野は意に介さず、器用に背中のホックを外した。
「……まぁいいや。似合ってるよ」
そう言ってカップ部分をずらして先端を指で撫でる。乳頭はすでに次の刺激を待ちわびて固くなっていた。
「あんっ」
西野は片方を咥(くわ)え、もう片方を軽く摘(つま)んだ。クリクリと捏(こ)ねながら、舌先で転がす。吸って、転がして、また吸う。
「……っ、もっと、……して……」
胸の刺激が腰まで響く。期待で身体の中心がジンジンと痺(しび)れ始めた。
そう、もっとして、何もわからなくなるように。
「なぁ、もうビシャビシャなんだけど。早くない?」
揶揄う声が胸元から聞こえる。
西野の愛撫を夢中で追っていると、いつの間にか大きな手がスカートをめくり、太(ふと)腿(もも)から下着までを撫で上げていた。言われなくてもとっくの昔から濡れているのは自覚している。下着の色だって変わってるだろう。
美咲は恥じらいもせずに答えた。
「だって気持ちいいんだもん」
「ほんとヤるときは素直だよな」
あけすけな美咲に西野は苦笑するが、どこか嬉(うれ)しそうだ。
だからお願い、触ってよ、と目で訴えると、西野も承りましたと黙って応えた。身体を起こしてしなやかな太腿に頬を寄せる。
柔らかい脚にチュッと触れながら西野の唇があわいへと向かう。クロッチをずらしてそっと溢れた蜜を掬(すく)い、立ち上がった肉芽に塗りつける。ピリッとした刺激に腰が揺れた。
「んっ!」
クルクルと小さな円を陰核の上で描くと、さらに奥から愛液が滲(にじ)むのがわかった。少し動いただけで水音がする。
美咲の眉が寄ると、西野は指を二本滑り込ませて囁(ささや)いた。
「今日すごいな。いつからしたかったの?」
「あっ、んっ……、ずっと……」
そう、ずっと。ずっとしたかった。だから早く掻き乱して。
西野は慣れた手つきで肉壁を刺激する。ぐちゃぐちゃと音を立てる淫蜜はすぐに指に絡みついた。中で動く指は熱くて、掻き出すたびに奥から新たな粘液が溢れてくる。
「ああっ、い、ぃっ……それっ」
ざらついた部分への刺激は期待どおりの快楽をくれる。そして西野は、そろそろほしいと思ったときに吸ってくれるのだ。
「……――っ!」
生温かく動く肉塊が器用に花芯を刺激する。胸と同じように吸って、つぶして、また吸う。
ナカを刺激する指がコリッと何かに当たったとき、美咲は反射的に叫んだ。
「あっ、だめっ! やめて!」
美咲は西野の頭を押さえてサッと腰を引いた。この先は嫌だ。何か噴き出してしまいそうな予感は快楽よりも恐怖が強い。顔を上げた西野は、愛液で濡れた口を拭いながらあっけらかんと言う。
「何も気にすることないのに」
そういう問題じゃない。怖いのだ。美咲が無言で首を振る。西野は美咲が嫌だということを無理強いはしない。
それじゃ、と太腿を食みながら西野は伺った。
「……挿(い)れていい?」
「うん」
少し皺がついてしまったな、と思いながらスカートと下着を取り払う。西野も自分の服を脱いで手早くコンドームをつけると、美咲に向き直って脚を割り開く。
明かりに晒(さら)された西野の身体に胎(はら)の奥が疼(うず)いた。同時に下半身の猛(たけ)りにホッとする。ああ、自分の身体に興奮してくれているんだと。まだ大丈夫だ、と。
美咲を見下ろしながら西野は嬉しそうに笑う。細める瞳には獰(どう)猛(もう)さが滲んでいた。
「マジでヤバイよ。びしょ濡れ」
その言葉どおりに、肉棒を入り口で何度か前後させただけで何の抵抗もなく熱が飲み込まれた。西野の息が少しだけ上がり、美咲を見る目が雄の色に変わる。
挿入された瞬間はいつも圧迫感で息が詰まる。はくはくと短く息を吐いて満たされる感覚を噛み締めたら、代わりに違う欲求が湧いてくる。
腰がわずかに震えるのを確かめると、西野は美咲を抱き起こして自身に跨(またが)らせた。自分の背後に枕を敷いてポスンと寝転がり一息つく。
「ほら、好きなだけ動けよ」
余裕の表情を浮かべ、指先で胸の先を弄びながら西野は美咲に欲望を促した。
わかってるな、と思う。美咲はニッと口の端で笑い、腰を揺らした。好きなところに当てて擦り熱杭の感触を確かめると、やっと息ができたように悩ましい声を漏らした。
「はぁっ、あっ、んっ」
ああ、気持ちがいい。自分と西野の間からぐちゃぐちゃと音がする。
たまらず仰(の)け反りそうになるが、まだ美咲にも余裕がある。西野は美咲の脚を撫でながらこちらを眺めている。どこか美咲への征服欲を感じさせる西野の顔が自分の中に新たな火をつけた。
「……っ……キス、したい……」
淫らに腰を振りながら要求するとすぐに応えてくれた。西野は上半身を起こし、美咲の背中に手を回して密着させる。さっきよりもずっと熱い胸板と手のひらが嬉しい。
この男の匂いは、自分の興奮に拍車をかけるとわかっているからやめられない。
柔らかい胸を思い切り押しつけ、西野の唇にしゃぶりつく。自分より大きくて重い舌を舐めるのは気持ちがいい。舌先で少し誘うだけで乗ってくれる西野はやはり上手い。
西野も美咲の頭を持って逃す気はないとばかりに舌で嬲(なぶ)る。
「んっ、んっ、んんっ、――っ……」
西野の咥内で声を上げながら、今自分は男を食っていると美咲は思う。男の首に腕を絡ませ、唇に食らいつき、いやらしく腰を揺らして快楽を貪る。
人によっては浅ましく下品だと思うだろう。だがそれが自分だ。西野はそんな美咲を喜んで相手してくれるから好きだ。
「はっ……えっろ……」
唇からどちらのものかわからない糸を垂らしながら西野がつぶやく。美咲を見る眼差しは熱くて鋭くて、少しだけ甘い。
咥内と膣内を存分に満たしてもらうと段々大きな波が迫(せ)り上がってくる。一層腰が激しく揺れ始めると、西野が静かに囁いた。
「いいよ」
言われるがままに、思う存分振って擦りつける。もう少し、もう少し。弾ける瞬間を逃すものかと目を瞑(つぶ)って快感を溜める。
――あ、くる。
瞬間、全身の力が抜け落ちて白い波に飲まれた。後ろに倒れそうになる美咲を、西野が両手で支えてそっとシーツへと倒す。
「はぁっ……はぁっ……」
朦(もう)朧(ろう)としながら息を整えていると、温かい手が両肩を撫でた。薄目で見上げると雄の目をしたままの西野から、優しい声で厳しい要求をされた。
「少しは気が済んだか? じゃあ俺にも付き合えよ」
まだ痙攣(けいれん)する身体を軽く持ち上げ、美咲の身体をうつ伏せにひっくり返す。
華奢(きゃしゃ)な腰を引き上げて形のいい尻を掴(つか)むと、未だ欲望を保ったままの雄をねじ込んだ。
「んんっ、あぁっ!」
「っ……さすが、絡みついてくんな……」
西野は汗ばむ肌を舐め、薄い背中に軽く口づけた。
余韻に浸る間もなく再び質量で満たされると、美咲自身も貪欲に搾り取ろうとする。
軽く息を吐き、西野はゆっくりと抽送を始めた。
「あ、やっ、まっ、あぁっ!」
まだイッたばかりだ。もう少しお手柔らかにお願いします、とは先に楽しんだ自分が言えるわけがない。
「んん――っ、――――っ」
枕を握りしめ、顔を埋めて叫んでいると西野がその枕を抜き取った。一方的に美咲を啼(な)かせて楽しそうだ。
「こらこら、ちゃんと声出して喘(あえ)げよ」
「あっ、あぁ、い、いぃっ、きもちっ、いっ……!」
「うん、俺も気持ちいいよ」
西野は押しつぶすように美咲の背中に覆い被さる。肩を抱き込み、冷たい耳朶(じだ)を食んで愉悦の中に閉じ込めた。そのまま西野の下で美咲は啼かされ続けた。
今日もどちらかがギブアップするまで求め続けるだろう。まぁ大抵は美咲が先にもう無理だと断るんだけど。
セックスは好きだ。
仕事も、人間関係も、将来も、日常の全てを忘れて相手の身体を好きなだけ貪り、自分の身体を貪られる時間が好きだ。
何も考えず、ただの女になれる時間。
生きていると思えるし、このまま死んでもいいとも思える時間。
美咲は自分でも外面がいいと自覚している。条件反射のように笑顔を作り、相手が求めるものを読んで応えようとしてしまう。そんな相手は愛想のいい従順な女にセックスでも同じことを求めてくる。
そんなの無理だ。この時間は、美咲が自分を取り戻す時間だ。
「やっ、あっ、にし、の、だめっ、イくっ……!」
「いいよ。イけよ」
大き過ぎる快楽に身体が悲鳴を上げ、美咲がすがるように訴えても西野がやめることはない。優しい顔をして仕上げとばかりにさらに奥を抉(えぐ)られ、声が途切れる。
「ああっ! やあぁ――……っ!」
もう何度目かもわからない白い閃光が美咲の視界を走る。ぐったりと横たわる身体を西野は繰り返し愛撫し、揺さぶって抱きしめた。
二年半ほど前に彼氏と別れてからはずっと、西野が相手をしてくれた。近場でそういう相手は作らないつもりだったが、酔った勢いで寝てしまった。一度きりだと思っていたのに、身体の相性がいいのか今でも誘ったり誘われたりを繰り返している。
お互いに都合のいい相手だった。二人でどこかに出かけることもない。どこに住んでいるのかも聞かない。携帯の番号だって知らない。
どちらかがしたいときに誘った。何の不都合もなかった。
――ごめん。本当にごめん、美咲――
でも美咲は『結婚』がしたかった。自分が相手を求めるのと同じくらい、自分を求めてくれる人と。
愛した分、愛してくれる人と。
第二話 昔の男
さて、何から手をつけたらいいものか。
美咲はデスクに貼ったToDoリスト代わりの付箋紙を眺めながら軽いため息をついた。
新商品の企画書、試作品の結果報告、売上のチェック、原材料の選定……やる事はそれなりにあるがどれも手をつける気にならない。
軽く肩を回しながら、やる気が出ない原因を数えてみる。
まずは一つ目、新人教育。四月から新しく入った開発員の女の子は二十六歳で、この歳で開発室に異動になったのだから本人の希望もあったのだろう。
厳しくするつもりはないが、厳しくせざるを得ない場面が増えてきた。何度言っても食品を触る日に、香料入りのハンドクリームを塗ってくるのだ。その上注意をすれば平気で言い返される。
「家で塗っているだけで職場では塗ってません。職場に着く頃には香りも飛んで消えています。そこまで気にしなきゃいけないことですか?」
彼女からすれば半分プライベートに踏み込まれているのだから、まぁわかる。わかるが君の仕事はそんなに甘いものじゃない。
普通の人の舌や鼻は、思っているよりも正確だ。美咲は味や香りについて、何の味で何が足りないといった具体的な説明をできるが、世の中の大半の人は説明ができないだけで実際にはちゃんと「感じている」。微妙な違いや風味は「美味しい、また食べたい」に繋(つな)がるのだ。
食品開発に香料は一番邪魔だ。デスクワークだけの日なら何も言わないが、食品に触る日は勘弁してほしい。
先ほどもやんわりと注意したのだが、結局同じ班の彼女と歳の近い同僚に愚痴っているのをトイレで聞いてしまった。マネジメントの仕方を誰か教えてほしい。
二つ目は美咲自身の仕事だ。正直、アイディアが行き詰まっている。
三つ目は天気。肌に湿(し)気(け)った空気が張りつく感覚が不快でたまらない。
最後に四つ目、生理二日目。自分自身の血の匂いに辟(へき)易(えき)としている。
小さな不快は積み重なれば、それはもう大きな不快だ。これ以上嫌なことが起きませんように、と思いながらデスクに向き直ったところで、五つ目が起きた。
「いやぁ、家に帰ってもね、ヨメはおかえりの一つも言わないんですよ」
部屋の中に通る男の声と内容に、美咲のキーボードを叩く手が止まった。また始まったか。
「お風呂入れてー、オムツ替えてーって上司かってくらい指示が飛んでくるんですよ? お疲れ様の一言でもあればいいのに、何にもないし。泣いたらちょっと抱っこしてよって。それお前の仕事じゃねぇの? って話ですよ。何のための専業主婦なんだか」
いいや、父親であるオマエの仕事でもあるんだぞ、と美咲はパソコンの画面を見たまま内心つぶやく。
声の主は同じ開発員の後(ご)藤(とう)。美咲とは班が違うが、長く開発に携わっており仕事に関しては真面目な男だった。彼が結婚して子どもが産まれるまでは。
後藤は最近、開発室の男性に家庭の愚痴を頻繁に漏らすようになった。既婚の男性は「ああ、わかりますよ、ウチも似たようなもんです」と笑って答えるし、未婚の男性は「マジっすか、結婚こえー」とはやし立てる。
後藤の相手を今しているのは愛妻家の男性だ。家庭の愚痴をいつも笑って聞いてくれる穏やかな人である。
ちなみに女性陣には、この会話は聞こえないことになっている。シンと静まる部屋の中で後藤はお構いなしに続ける。
「あぁ、マジで結婚早まったわ。若いってだけでつい引っかかっちゃった」
「ははっ、いいじゃないですか。若くて可愛い奥さんもらったんだから」
「いくら若くてもね、子ども産んだらもう同じよ。子ども産んでない三十代の方がよっぽど綺麗よ」
後藤の妻は十歳年下で、まだ二十代半ばだ。そう言う後藤の視線が美咲の方に向いている。
この男の意図に誰も気づきませんように、と美咲は心の中で祈りながらEnterキーを強めに押した。
「またまたぁ、二人目もできたんでしょ? 仲良いじゃないですか」
「だからねー、正直色々溜まるよねー」
部屋の空気が一瞬、変わった。誰も目線を合わせないが、少なくとも女性陣が思っていることは皆同じだ。
色々溜まるってナニが? その話をわざわざ職場(ここ)でする意味は? 美咲は無意識に奥歯を噛んだ。
「たまに思うよね。元カノと結婚してたらどうなってたのかなぁって」
「そんなもしもの話より現実ですよ。早く帰って奥さん大事にしてください」
つわり重いんでしょ? と、同僚が自分の愚痴に乗ってこないことが面白くなかったのか、後藤はそれ以上何も言わなかった。
美咲はその会話を聞きながら、喉の奥が握りつぶされるような気分になった。上手に息が吸えない。肺に入ってくる空気は湿気で嫌な匂いしかしない。
堪らず席を立ち、廊下を走って非常階段から外に出た。外は雨で濡れた土の匂いで不快だったが部屋よりマシだった。あんな男がいる部屋よりもずっと。
三年前、美咲は二十九歳で、三十歳までに結婚したいと思っていた。当時付き合っていた彼氏――後藤とは結婚の話も出ていて、その結婚するはずであった後藤から付き合っていることは職場では秘密にしようと言われていた。同じ商品開発室で、当時は同じ菓子を担当。公私混同と思われるのは後藤も美咲も不本意だった。
しかし、プロポーズされるだろうと思っていたクリスマス前に、浮気されていたことを知った。通い慣れた後藤の家で、いつものように美咲が作った夕食を食べたあと、話を切り出された。
『ごめん。本当にごめん、美咲』
後藤はただただ謝るばかりで、どうにか穏便に美咲と別れようと必死だった。浮気相手は妊娠しているらしく、美咲は黙って別れるしかなかった。
その直後の忘年会で、後藤が春に結婚する話と、その相手が同じ会社の人間であることを初めて知った。
会場の隅には後藤と、彼が心配そうに背中に手を当てる女性がいた。まだ幼さを残した、若い女性というよりも女の子だった。
付き合っていた男が、自分よりずっと若い女の子と結婚する。子どもができたからとはいえ、「選んでもらえなかった」ことが惨め過ぎて誰にも言えなかった。
何が悪かったのだろう。どこで彼の気持ちが自分から離れてしまったのだろう。どれだけ考えても、誰にも答え合わせをしてもらえない問題が頭にこびりついて離れなかった。
後藤と別れてからまともに眠れなくなり、それでも必死に仕事をすることで自分を保っていたのに、二人の姿を見て何もかも、自分自身もどうでもよくなってしまった。
大事にしていた人を失ったことで、大事にされていた自分も失ったのだ。いや、大事にされていたと思い込んでいただけで、最初からそんなものはなかったのかもしれない。
自分の中で、どうにか保っていた最後の糸が切れてしまった。だからそのとき、酔った勢いで西野と寝た。
忘年会の会場を抜け出し、どうでもよくなった自分をどうでもよく扱わずにはいられなくて西野の「誘い」に乗った。
今まで美咲は一夜だけの関係なんてものとは縁がなかった。好きでもない男とセックスをするなんて信じられなかったし、できる訳がないと思っていた。軽蔑すらしていた。
案外できるものだ。「美咲」はもうどうでもよいのだから。
簡単に男と、大して話したこともない同僚とあっさり寝た自分に失望しただけで、なんてことなかった。好きでもない相手に触れられて性的な快楽も感じたのだから、なんて簡単な身体なのだろうと思えた。
ただ、西野の香りにたまらなく安心した。
自分の身体を好きにしていいと言ったのに、ずっと美咲を労(いた)わるように抱いてくれた。優しい匂いに満たされて久しぶりに何も考えずに眠れた。
お互いなかったことにするんだろうと思ったのに二回目を誘われたときは驚いた。付き合っている訳でもない、酔ってもいないのに、西野が誘う理由がわからない。
直前までどうしたらいいのか迷っていたのに待ち合わせの場所に足が向かったのは、もう一度西野の香りに包まれて眠りたかったからだ。もう一度、誰かに優しくされたかった。やっぱり西野は優しかったし、よく眠れた。
それからも断る理由もなかったので、都合が合うときは応じた。結婚願望もなくなっていた。
『何してほしい? 何したい?』
いつもそう言って、西野は美咲を抱きしめてくれた。西野には後藤の話はしなかったが、会うたびに少しずつ落ち込む時間が減っていった。
三十歳になって主任が決まったときに西野は言った。
『責任ってのは権利と同じだろ。負える責任の範囲で好きなようにやっていいって言われてるんだ。美咲もしたいようにすればいい』
背中を押されるように、仕事をもう一度本気で頑張ろうと思った。立場に伴う仕事はつらいときもあったけれど、そんなときは西野を呼んだ。西野も同じように都合のいいときに美咲を誘った。お互い様だった。
結婚どころか恋愛すら忘れていた今年のはじめ、同じ開発室にいる先輩が突然結婚した。話を聞くと、結婚相談所で紹介してもらったそうだ。すぐに妊娠してお祝いを兼ねた食事をした時に先輩に言われた。
「出産は別として、少しでも結婚したいって思うなら頑張れるときに頑張ってみたら? あとから本当は結婚したかったって思うより、あれだけ婚活したけど縁がなかったって思う方が、同じ独身でも後悔が少ないと思わない?」
美咲ちゃんならいい人が見つかると思うよ、と笑う先輩は本当に幸せそうだった。
できるなら結婚したい。愛して愛してくれる家族がほしい。自分の中に確かにそんな感情が残っていた。
しかし、美咲は以前と明らかに変わってしまったことがある。
西野以上にセックスがしたいと思える人がいないのだ。美咲にとって西野は、もはやただのセックスをする相手ではなく精神安定剤になっていた。
西野の匂いは無条件で安心できる。抱きしめられて初めて深く息が吸える。自分の欲望を思い切り晒すことを許してくれる。
そんな相手は、そうそういない。昔はセックスはただ耐える時間だったのに、今では人柄と同じくらい重視している。どれだけ条件がいい相手を紹介されても、どうしても譲れない条件が美咲を縛っていた。
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