書籍詳細
ワケあって、女嫌いな御曹司の偽恋人になりました〜男装女子への極甘プロポーズ〜
ISBNコード | 978-4-86669-092-6 |
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サイズ | 文庫本 |
定価 | 754円(税込) |
発売日 | 2018/04/13 |
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電子配信書店
内容紹介
人物紹介
長下部瑠依(おさかべるい)
23歳。派遣切りに遭い、女装バーでバイトすることに。
鷹栖悠成(たかすゆうせい)
30歳。鷹栖不動産の御曹司。極度の女嫌い。
立ち読み
プロローグ
瑠依は、自分を組み敷く男を呆然と見上げていた。
現在自分を見下ろしているのは、鷹栖悠成。長身で均整の取れた体躯と、恐ろしく整った容姿を持つ男である。
ひとたび街を歩けば、異性は高確率で彼に見惚れる。高い鼻梁、癖のない少し長めの前髪から覗く、他者を寄せ付けない冷ややかさを湛えた黒瞳。形のよい唇から発する声はまさに美声と呼ぶにふさわしく、彼に耳元で囁かれれば腰が砕けること請け合いである。
悠成は見目だけではなく、置かれている立場でも耳目を集めた。鷹栖不動産―業界大手デベロッパーの代表取締役社長のひとり息子、つまりは御曹司と呼ばれる存在だ。現在は常務を務めており、彼の父が退任すれば社長のポストに収まることが決まっている。まさに、ハイスペック。人の羨む容姿と財力を持つ男は、一般人が気後れしそうな存在感を放っていた。
それほど完璧な男に、なぜ自分は今組み敷かれる事態に陥っているのだろう。混乱を極めた瑠依は、自らの状況を振り返る。
学生時代から、異性よりも同性に好かれてきた。女子高に通っていたころは、演劇部に所属して主役を張っていたことから、後輩からは“お姉さま”と呼ばれて慕われてきたし、同学年の女子や先輩からはまるでアイドルのような扱いをされた。といっても、それは女性に対しての賛辞ではない。男役を演じていた瑠依に対しての憧れ―要するに、“異性を感じさせる同性”として好意を抱かれていたのだ。
スレンダーと言えば聞こえはいいが、凹凸の少ない身体は女らしさとは程遠い。身長は百七十センチ近くあり、美人だが中性的な顔立ちをしているからか、女として見られることはまずなかった。
可愛らしい女子から慕われるほど、自身に求められているのはあくまで“男役”なのだと悟り、女性らしい服装やメイクなどもしてこなかった。高校を卒業してからもそれは変わらず、“男性のような女性”というのが、他人から見た瑠依の評価である。
それがなぜか、今現在、瑠依は魅力的な男に押し倒されている。しかも、ここは悠成の部屋のリビング。彼のテリトリーだ。
(悠成さんのこと、すごくすごく好きだけど……! でも、このままじゃダメ……!)
「あの、悠成さん……」
瑠依は思い切って、自分を組み敷いている悠成に声をかける。
「やっぱり、こういうことはいけないと思うんです」
「こういうこととは、具体的には?」
「そ、それは……」
秀麗な男に生真面目に尋ねられ、瑠依は口ごもった。誰がどう見てもふたりの状態は明らかだし、何よりも聡い悠成がわからないはずはない。それでもあえて聞いてくるのは、瑠依の羞恥を煽っていることにほかならない。
(悠成さんは、意地悪だ……!)
「こういうことは、こういうことです! 悠成さんの馬鹿……っ」
「馬鹿でも阿呆でもいい。君に触れられるなら、どれだけ詰られても構わない」
当たり前のように告げられて、瑠依の顔に赤みが増した。
悠成は素敵な男性だ。こんなに熱烈に求められて、嬉しくないわけがない。それに瑠依自身、彼に強く惹かれていた。共に過ごすうちに悠成の人となりを知り、惹かれずにはいられなかったのだ。
しかしふたりの間には、大きな問題がある。これまで築き上げてきた信頼関係が一気に崩れかねない重大な秘密を、瑠依は抱えている。秘密を明らかにしなければ、ふたりが結ばれることはない。だがそれは同時に、悠成との決別を意味している。
「俺は君が好きなんだ。―たとえ男同士だとしても、気持ちは変わらない」
「っ……」
熱烈な告白に、瑠依の呼吸が一瞬止まる。好きな男性に求められる喜びと同時に、胸を抉られそうな罪悪感が去来した。
そう―悠成は、瑠依を同性だと思っている。瑠依もそのように接してきたし、男じゃなければ彼の傍にいることができなかった。
(こんなことになるなら、引き受けなければよかった)
できることなら、悠成との出会いを始めからやり直したい。けれども彼の事情を考えると、女として出会っていたとしたら一顧だにされなかっただろう。
「瑠依……好きだ。君の気持ちを聞かせてくれ」
「僕、は……」
答えあぐねた瑠依は、泣きそうな表情を浮かべ、大好きな人をただ見つめていた。
第一章
その日、長下部瑠依は、実家のリビングでぼんやりとテレビを見ていた。
平日の昼間からソファに寝ころび、ただ時間を無為に過ごしている。そうしているうちに、いつの間にか外は暗くなっていたが、何もする気が起きない。
(そういえば、お父さんもお母さんも今日は遅くなるって言ってたっけ)
朝に聞いた話を思い出した瑠依は、ソファから起き上がって冷蔵庫を開けた。けれども、冷蔵庫に目ぼしい食材は何もない。実家には父母のほかに兄が住んでいるが、その兄も仕事でいつも遅いため、夕食を家でとらないことが多かった。自分のためだけに買い物に行く気も起きないので、今日はインスタント食品で済ませようと決めた。
普段の瑠依であれば、ここまでものぐさな行動はとらない。気力が湧かないのは訳がある。一週間前に、派遣切りの憂き目に遭ったからだ。
経営不振による人件費の削減という、どこにでも転がっていそうな理由で、瑠依は職を失った。二十三歳、秋―ほんの三日前の出来事である。
大学の在学中は就職活動に勤しんで、何十社とエントリーシートを送った。だが、ことごとく撃沈し、内定をもらえないまま卒業することになってしまった。
実家住まいで住む場所に困ることがないとはいえ、さすがに無職でいるのは両親に申し訳ない。かといって就職のあてもなく、途方に暮れていた瑠依は、派遣として働く道を選んだ。
派遣先は業界の中では中堅の商社で、受付業務を担当していた。しかし、この秋に契約を打ち切られたのである。新たな派遣先が決まるまでは時間がかかるため、現在瑠依は自宅待機という名の無職だ。
両親は、仕事に就くまで食費を入れなくてもいいと言ってくれていたものの、甘えているわけにはいかない。いくら親元にいるといっても、社会人なのだ。いつまでも世話になるのは申し訳なかった。
(はー……肩身が狭いなあ。お兄ちゃんはしっかり会社員してるのに……)
七歳年上の兄の誠は、大手外食チェーン店の営業を担当している。学生時代から社交的で顔が広く、何事もソツなくこなしている自慢の兄だ。一方の瑠依は、どちらかと言えば要領が悪い。努力が実を結ぶことが少なく、結果を残せないのである。
そんな瑠依も、高校では演劇部に所属し、主役を務めてきた。中性的な外見と、女性にしては高い身長なこともあり、男役を任されることが多かったが、演じることは好きだったし、懸命に周囲の期待に応えてきた。
だが、舞台を降りてしまえばただの人である。いや、ただの人ならまだいい。舞台を降りれば、重用されていた中性的な容姿があだとなってしまう。女性らしい可愛らしさがないのは、本人にとってコンプレックスだった。
幼いころから男の子と間違えられてきたし、恋愛経験もまったくない。社会人になって少しは女らしくしようと髪を伸ばしたが、さほど効果はなかった。極め付けは、ようやく得た職をほんの一年半足らずで失ってしまったことだ。現在はまさに抜け殻のような有様で、なんとも情けない状態である。
(このままじゃいけないことは、わかってるんだけどね……)
パラパラと就職情報誌をめくりながら、瑠依がため息をついたときだった。
「シケた顔してんなー、瑠依。どうせ昼間っからゴロゴロしてたんだろ」
「お兄ちゃん……ずいぶん早いね」
時計を見れば、まだ午後五時前である。すると誠は、「プレミアムフライデーで早かったんだよ」と言った。消費の拡大と働き方改革を推進する政府の方針で、午後三時の退社を推奨しているとニュースで見たことがあった。しかし、働いていたときも無職の今も、まったく関係のない話だから気にも留めていなかった。
「せっかく早く帰ってきたのに悪いけど、夕ご飯何も用意してないよ」
「だと思って、弁当買ってきた。おまえ、最近たるみ過ぎ。いくら仕事なくて落ち込んでるからって、食事くらいちゃんとしろよ。生活の基本だろうが」
「……ごめん」
誠に窘められて、瑠依はますます情けなくなってくる。
昔から、優秀で堂々としている兄に頭が上がらなかった。瑠依よりも十五センチほど高い身長と、男らしい精悍な顔立ちの美男であることから、兄は異性からの人気が高い。それだけではなく、生来の面倒見のよさから男女問わず友人も多かった。年の離れた妹に対してもやさしく、多忙な両親に替わってよく面倒を見てくれたものだ。
「どうせ暇だったら、俺の知り合いの店で短期のバイトでもするか?」
椅子に腰かけてネクタイを緩めた誠が、弁当を広げるついでのように口にした。何気なく問いかけられた瑠依は首を傾げると、「どういうバイト?」と尋ねる。学生時代にアルバイトの経験はあったが、コンビニやファーストフード店での接客くらいだ。派遣先では受付だったので、それほど多くの職種を経験していない。
「接客業だよ。しかもおまえ向きの」
「わたし向き?」
「ああ。昔からの知り合いで、女装バーを経営してるやつがいる。そこの店員が急に辞めることになってな。人手が足りなくて、ヘルプに入れるやつを探してる。期間は二週間、どうだ?」
「はぁ!? お兄ちゃん、何言ってるの!?」
思わず瑠依は、持っていた箸を落としそうになった。
誠は、“女装バー”だと言った。そこで働いている店員とは、つまり“女性の恰好をした男性”である。男の店員が必要なはずなのに、女の瑠依にバイトに入れとはどういう了見なのか。
「だっておまえ、男装得意だろ。高校のときは文化祭で、ほら……男装ものの舞台をやったって言ってただろ」
「あれは、演劇部の出し物だったから……っ」
昔の少女漫画を原作とした、男装の麗人役を演じたことはある。それ以外でも、演じてきたのは男役がほとんどだ。演劇部に瑠依より背の高い女子がおらず、必然的に男役を演じざるを得なかった。今は肩まで伸びている髪も当時はショートだったため、男役にはうってつけだったのだ。
「演劇部ではあくまでも男“役”を演じただけであって、見ている人たちは最初からわたしが女だっていうことを知ってて見ていたの! 女装バーに来る人たちは、男の人が女装していることが前提でお店に来るんじゃないの?」
“女装バー”には、『男性が女装をして接客をする店』程度の認識しかないが、女の瑠依が男のフリをして女装するのは、客を騙すことになるだろう。それに、女の自分に“女装”しろとは、何を考えているのか。食って掛かる瑠依に、誠はふっと鼻で笑う。
「何も、ずっと客を騙せって言ってるわけじゃない。二週間、ちょっと手伝ってやれって言ってるだけだ。どうせおまえ、無職で暇だろ」
なんともひどい兄の言い草だが、事実無職で暇だった。反論できず瑠依が口をつぐむと、誠はさらに言い募る。
「家でゴロゴロしてるくらいなら、人の役に立てよ。バイト代も入って人助けもできるなんて、一石二鳥だろうが。店長には、男みたいに見える妹を連れてくって言ってあるから安心しろ」
すでに誠は、先方に話を通しているようである。断れないように話を進めているあたりさすがは兄だと、瑠依は他人事のように感心した。昔から、やや強引で口が悪いところは変わらない。だが、決して瑠依に嫌な思いはさせないし、基本的にやさしいことは知っている。
「わかった。でも、二週間だけだからね」
「そこは心配するな。じゃあ、さっそく明日から頼むわ」
「あっ、明日!?」
「言っただろ。人手が足りないって。すぐにでも助けてほしいんだよ」
誠は瑠依が引き受けることを前提に、この話を持ってきたのだ。強引な兄に苦笑したものの、このまま家で腐っているのも気が引ける。
女が女装バーで働くことに抵抗がないわけではなかったが、これは『人助け』で『期間限定』なのだと、自分に言い聞かせる瑠依だった。
『Night of the butterfly』―夜蝶の名を冠する女装バーは、都内有数の繁華街の片隅にひっそりと店を構えている。雑居ビルの地下一階にあり、扉の前には蝶の形をした看板が提げられていた。
「―店長、俺の妹の瑠依だ。適当に使ってやってくれ。瑠依、こっちは店長のトシさん」
翌日。兄に連れられて開店前の店に来た瑠依は、店長を紹介されて驚いた。
(ほ、本当に男の人……!? どこからどう見ても女の人にしか見えない!)
店長は、誠と同年代か、それよりも少し上に見受けられる。声こそ低く掠れていたものの、男性にしては華奢で、立っている姿は女性そのものだ。和装で上品に髪を結い上げており、美しく化粧を施している。髭痕もなく、仕草や表情からは色気すら感じられた。
「よろしくね、瑠依ちゃん。急に頼んじゃってごめんなさいね」
「いえ……わたしでお役に立てるかどうかわかりませんが、よろしくお願いします」
頭を下げた瑠依に、店長が悪戯な笑みを浮かべる。
「こんなに綺麗な妹さんを、女装バーでアルバイトなんてさせて悪いお兄さんね? 誠さん」
「人手が欲しい店長と、暇を持て余していた妹の縁を繋いだだけだよ、俺は」
肩を竦めて応じる誠を見た瑠依は、兄が本当に店長を助けたいのだと表情で察した。こういう人の好さが、兄が皆から慕われる所以だ。そして、店長のことだけではなく、家で腐っていた瑠依を心配したから、こうして外に出る機会をくれたのだ。
(二週間だけど、頑張ろう)
店内は、カウンターとボックス席があるだけで、それほど広さはない。満席でも、数十名程度しか入らないだろう。だが、何もかも初めての体験、しかも客に女だとバレないようにしなければいけない。いくら中性的だとはいえ、ここでは店長のように“より女性らしく見える”恰好をするのだ。どこからボロが出るかわからない以上、油断は禁物だ。瑠依が気持ちを引き締めたとき、店長が妖艶な笑みを浮かべた。
「それじゃあ、瑠依ちゃんには着替えてもらいましょうか。ネイルは開店までに間に合わないからしないけど、メイクはばっちりしてあげる。どこからどう見ても、素敵な女性に変身できるわよ」
自信たっぷりに宣言されて、瑠依は少々不安になった。男にしか見られなかった自分が、果たして店長のように素敵な女性に変身できるのかと思ったのだ。容姿に関して―というよりは、女としての自信がとことんないのである。
「店長、あとはよろしく。瑠依、頑張れよ。俺も遊びに来てやるから」
軽い調子で言った誠は、そのまま店を立ち去ってしまった。「更衣室に案内するから」と言う店長に続き、緊張しながら店の奥に入る。更衣室は畳敷きとタイル張りの床で分けられており、左手にロッカー、正面には化粧用の大きな鏡と椅子が数脚置いてある。鏡の前の棚にはドライヤーや数々の化粧品が並んでおり、男性ばかりがいる職場とは思えない光景だ。
「さすがにドレスだと女の子だってわかりそうだし、メイドさんの恰好でもしてみましょうか」
「メ、メイド……ですか!?」
「メイド服なら、露出も抑えられるしね。髪はせっかく肩口まで長さがあるから、ツインテールにしてもいいし……なんなら、ウィッグを着けてもいいわね」
言いながら、店長がハンガーラックからメイド服を持ってきた。そこには、ナース服やキャビンアテンダントの制服などもあり、店のイベントに合わせて着ることがあるのだという。基本的に衣装は店から貸し出しをするが、中には自前で用意している従業員もいるようだ。促されてパーテーションで区切られた空間に入ると、店長が何気ない口調で言う。
「うちにいるのは、女の子よりも女らしい“男の娘”たちなの」
「男の娘……ですか?」
「そう。一見するだけだと、男だってわかる人はいないわ。日々、女の子らしく見えるように研究を怠らないし、とても綺麗で可愛い子たちよ」
着替えながら店長の説明を聞いていた瑠依は、ますます緊張感が増した。本当に務まるのだろうかと、メイド服姿になった自身を見下ろす。
(スカートなんて穿くの、制服以外では久しぶりかも……)
メイド服は、高校の制服や派遣先で着ていた制服のスカートよりも、ずっと装飾度が高かった。上下のワンピースは黒を基調にし、膝丈のスカートの裾にはレースがあしらわれている。上半身は胸部に大きな切り替えがあり、ボタン回りにあるフリルは可憐だった。ラウンドカラーが首回りを上品に見せており、イメージしていたよりもずっと着心地がいい。
「……あの、どうでしょうか」
パーテーションからおずおずと顔を出した瑠依を見て、店長が綺麗な笑みを浮かべた。
「誠さんの妹だけあって、さすがに素材がいいわね。うっかり着飾り過ぎると、女の子だってバレちゃうかも」
「えっ……そんなことは。だってわたし、ずっと男みたいだって言われてきましたし」
「あなた、自分をわかってないわね。……女性はね、磨けば磨くほど光るのよ。だけどね、あなたの綺麗な顔も、折れてしまいそうなほど華奢な身体も、磨かなければさび付いてしまうわ」
男性でありながら、女性と見間違うほど洗練された物腰と容姿をしている店長の言葉は、説得力をもっていた。瑠依が頷くと、店長がメイク道具を指し示す。
「さ、着替えたら次はメイクをしてあげるわ。鏡の前に座ってちょうだい」
「はい……!」
瑠依は店長に言われた通りに鏡の前に座ると、メイクを施されることになった。
さすがに手慣れたもので、店長は様々な化粧品を駆使して瑠依を“女性”へと仕上げていく。
派遣先の受付勤務だったときもメイクはしていたが、それほど時間をかけなかった。もともとマスカラやアイラインを引くのが苦手だから、ファンデーションを塗って頬にチークを乗せる程度だ。アイシャドウすら使っていなかったのだから、自分がいかにメイクに興味がなかったのか思い知る。いや、メイク云々よりも、努力を怠ってきたのだ。
心の中で省みていた瑠依に、店長が見透かしたように声をかける。
「瑠依ちゃんは目鼻立ちがしっかりしている美人さんだから、そのままでも綺麗だけど……手を掛けると、もっと魅力的になるわよ。ほら、ごらんなさい」
店長に促されて鏡を見ると、自身の変身ぶりに瑠依の目が大きく見開かれた。
(わ……すごい! わたしがちゃんと女子に見える……!)
女性としてはなんとも残念な感想だが、鏡の中の瑠依は驚くほど変貌を遂げていた。大きな瞳を縁取るアイラインは中性的な面立ちに艶を与え、目を伏せると長いまつげが陰を作る。唇は軽くグロスを乗せているため、いつもよりも愛らしい印象を与えていた。
「ちょっと素材のよさを引き出すだけでも、とっても綺麗になれるでしょう? どうせだから、ウィッグを着けてみましょうか。もっと変身する気分を味わえるわよ」
それに、もしも瑠依を知る人間が店に来た場合でも、姿を変えておけば身元が明らかになりにくい。よほどのことがない限り正体は見破られないだろうが、知人が来店した場合の可能性を考えると、用心するに越したことはないと店長は言う。
「そうですね……念のため、ウィッグをかぶります」
「瑠依ちゃんなら、どんな色でも似合うと思うけど……そうね。元が綺麗な黒髪だから、ブラウン系のウィッグなんてどうかしら。ツインテールにすれば、メイドっぽいかも」
店長は、今の瑠依の髪よりも長いロングのウィッグを手に取った。慣れた様子で瑠依の髪をまとめてウィッグを装着すると、先ほど言っていたようにツインテールに髪を結う。
「綺麗なメイドさんの出来上がりね。あとは、ホワイトブリムを着ければ完璧だわ。ああ、それともうひとつ。お店に出るときは、自分が一番綺麗だと思って出ること」
「自分が一番……ですか?」
「そう。このお店の従業員は、みんな男の子だからね。本物の女性にはなれないけれど、メイクをして着飾って武装をするの。自分は誰よりも美しく、女性よりも女性らしいんだって、自信をもってお客様の前に立つのよ」
そう言って鏡越しに笑う店長は、瑠依が見惚れてしまうくらいしなやかな美しさがあった。
(自信、か……)
今の瑠依に足りないもので、もっとも必要な感情だろう。
(だからお兄ちゃんは、ここでバイトすることを強引に勧めてきたのかも)
女性としてはもとより、職を失ったことで、なけなしの自信をすべて失った。何をやっても上手くいかない気がして腐っていたが、努力しない理由にはならない。
「店長、ありがとうございます。わたし……二週間頑張ります!」
「いい笑顔ね。素敵よ、瑠依ちゃん。改めてよろしくね」
「はい!」
鏡の中の自分は、最近では珍しく溌剌としていた。久しぶりに前向きな気持ちで仕事に取り組める気がして、瑠依はますます笑顔を深めるのだった。
翌日の午後。『Night of the butterfly』の更衣室に来た瑠依は、ふたたびメイド服とウィッグを身に着けてメイクを施した。開店は午後五時からだが、それよりもだいぶ早い時間に入っている。慣れない格好をするため、準備に時間がかかるからだ。
店長からは「メイクを手伝ってあげる」と言われたが、二週間ずっとメイクをしてもらうのも申し訳ない。しかも昨日は店の雰囲気に慣れるようにとの店長の配慮で、洗い物などの簡単な作業をするだけに留まった。だから、今日からの十三日間が本番である。
(緊張するけど、少し楽しみかも……)
久しぶりに感じた身の引き締まる緊張感は、学生時代に立った舞台を想起させる。普段では着ないような衣装を身に纏い、自分ではない何者かになる感覚。それは、今の状況と似ているように思う。もちろん舞台上とは違って、あくまでもこの店では“女装をした男”の体であり、物語の人物を演じるわけではないのだが。
(強いて言うなら、“男の娘”を演じるって感じかな……)
そう考えると、ほんの少しだけ楽しくなってくる。これから二週間弱の間は、長下部瑠依ではなく、『Night of the butterfly』に勤める“女装男子”になるのだ。
「瑠依ちゃん、準備はできた?」
店長が更衣室に顔を出した。やはり今日も和装で、メイクも装いも美しい。「今日はカウンターに入ってもらうわね」と言われて頷くと、しげしげと見つめられる。その視線に、少々狼狽えた瑠依は、遠慮がちに問いかけた。
「あの、どこかおかしいですか?」
「何言ってんの、逆よ逆。どこからどう見ても魅力的よ。うちの男の子たちには、あなたが女の子だって伝えてないけど……あんまりにも綺麗で、嫉妬されちゃうかもね」
冗談っぽく言われた瑠依は、つい笑みを浮かべた。軽口をたたいて緊張を解してくれようとしているのが伝わったからだ。従業員とは、昨日出勤してきた二名と会っただけだが、いずれも瑠依とは違って可愛いタイプの男の子だった。この店が大好きで、瑠依にも親切に仕事を教えてくれた。接した限りでは、嫉妬するようには感じられない。
「わたし、ここにいる間は、自分が一番の美女だと思うことにします」
昨日教えられた心得を言うと、店長が笑う。「開店の準備を手伝ってちょうだい」と頼まれて返事をすると、店長の後に続いて店に入った。
開店の準備といっても、瑠依に任されているのは主に掃除や酒、食材の管理である。臨時バイトにできることはそう多くない。雑用と、閉店するまでの間“華”でいること―要するに、訪れた客の目を楽しませられるように、美しくその場に在ることを求められているのだ。
女装バーと言っても種類は様々で、要望によって客に女装を体験させる店もあれば、女装したスタッフたちが歌って踊るショーを楽しめる店もある。だが、『Night of the butterfly』は、そういったサービスは提供していない。訪れた客たちは、美しく女装した店員たちを観賞に来ているのだという。男性客だけではなく女性客も多く訪れ、メイクの仕方などを聞かれることもあるそうだ。
二週間後には新たなスタッフが入る予定のため、それまでの繋ぎが瑠依の役目である。キッチン担当が一名、客の相手をするのが店長とベテランの店員一名、瑠依は彼らのヘルプとして酒や食事を運び、それ以外はカウンター内に控えるよう言われていた。
「さあ、開店よ。今日もよろしくね」
「はい!」
瑠依が返事をすると、店長が店の外にある看板の電源を入れる。
午後五時から午前一時の営業時間中、ベテランの店員が入るのが八時からラストまでで、店長はオープンからラストまで店にいる。開店から午後十時までが瑠依の任されている時間帯だった。家から店までは電車で一本、移動時間を合わせても三十分程度なので、日付が変わる前には自宅に戻れる。
(お兄ちゃんに感謝しないとな……あのまま家で腐っていたら、こんな経験できなかったし)
全身が程よい緊張感に包まれていき、ぼやけていた意識がクリアになる感覚。わずかな期間だけでも自分が必要とされている喜びは、労働しているという実感を与えてくれる。
カウンター内でドキドキしながらグラスを磨いていると、入り口が開いた気配がした。
「こんばんは、店長。今日は客を連れてきたんだ。カウンターいい?」
「ええ、もちろんよ。瑠依ちゃん、お相手してあげて」
(えっ!?)
聞き覚えのある声と、店長の言葉で驚いた瑠依は、作業の手を止めて入り口を見る。すると、兄の誠がスーツ姿の男性を伴って店内に入ってきたところだった。
(お兄ちゃんと……友達? それにしても、ものすごい美形だな……)
誠の後ろから入ってきた男性は、息を呑むような美貌を湛えていた。兄も美形だが、タイプが違う。誠は表情豊かで、その場にいるだけで皆を照らし出す太陽のような存在だが、連れの男は冴え冴えとした月を思わせる。シャープな輪郭の中にある漆黒の瞳も、高い鼻梁も、引き結ばれた形のよい唇も、どことなく緊迫感を漂わせている。身長も高く、百八十五センチある誠と比べても遜色ない。上等なスーツを完璧に着こなして歩くさまは隙がなく、ひと目見ただけでエリートだろうと想像できる男だった。
「瑠依、こっちは俺の学生時代からの友達で、鷹栖悠成。悠成、こいつは俺の親戚で、長下部瑠依。この店の臨時バイトをしてる」
「……瑠依です。よろしくお願いします」
自分を“親戚”だと紹介されたことを不思議に思ったが、兄の友人なら妹がいることを知っているかもしれない。これも女だと見破られないための配慮だと理解した瑠依は、誠の話に合わせて挨拶をする。しかし悠成は瑠依に興味を示さずに、「鷹栖だ」と素っ気ない自己紹介をすると、癖のない髪を手櫛で乱してため息をついた。
「あの……何を飲まれますか?」
初対面から不機嫌をあらわにする悠成に、瑠依は兄に目配せをする。「この人感じ悪くない?」と目だけで訴えると、誠は苦笑してみせた。
「悪いな、こいつ今日は機嫌が悪いんだ。とりあえずビールくれ」
「わかりました」
ビールサーバーでふたり分のビールを注いだ瑠依は、誠と悠成の前にジョッキを置いた。カウンターにはほかに客がいなかったため、なんとなくふたりの前に立っていると、兄が瑠依に向かって声をかけてくる。
「悠成がさっきから態度悪いのはさ、今日いきなり両親に呼ばれてホテルのラウンジに行ったら、見合いさせられかけたからなんだと」
「誠、よけいなことを言うな」
心底嫌そうに端正な顔を歪めた悠成に、誠が肩を竦める。
「女嫌いなんだよ、こいつ。いいとこの御曹司のくせにいつまでも結婚しないから、痺れを切らした親が無理やり見合いをセッティングしたんだ。それにブチ切れたってわけ」
「それは……大変でしたね」
女嫌いの理由はわからないが、意に沿わない縁談など勧められても迷惑だろう。よけいに女嫌いを悪化させるかもしれない。もちろん、御曹司だというし、他人には窺い知れないお家事情もあるのだろうが。
なんとも世界の違う話だと思いつつそう言うと、悠成の視線が瑠依に向く。
目が合った瑠依は、ドキリとした。なぜか彼は、吸い込まれてしまいそうな切れ長の黒瞳を、自嘲の色に染めていたから。
「俺が女嫌いだから、誠はこの店に連れてきてくれたんだ。『女嫌いでも、女の恰好をした男は大丈夫だろう』と言って。……先ほどは、あまりいい態度ではなかったな。悪かった」
「い、いえ! いろいろ事情もあるでしょうし、気にしないでください」
「というわけだ。瑠依、今日はこいつの憂さ晴らしだ。じゃんじゃん飲ませてやれ」
この短時間で、悠成と誠のグラスは空になっていた。二杯目に彼らが頼んだのはシングルモルトで、腰を据えて飲もうとしているのが雰囲気から察せられた。
(御曹司か……お兄ちゃんの交友関係って本当に広いな)
瑠依の人生で関わり合いになることのないハイソサエティに属する人種だが、その分いろいろと苦労もあるようだ。
(それに……)
誠が友人だというだけのことはあり、悠成自身は悪い人間ではないようである。素直に他者に謝罪できる人物は、それだけで評価に値すると瑠依は思っている。なぜなら受付時代に、立場を笠に着る人物や、理不尽なクレームに無理難題などを押し付けてくる輩もいたからだ。
(お兄ちゃんの友達だし、今日は嫌なことを忘れて楽しんでくれるといいな)
瑠依はそんな気持ちを抱きながら、兄たちに乞われるまま酒を出した。
幸い店内はそれほど客はおらず、店長からも「お兄さんたちの相手をしてあげなさい」と言われたことで、ほぼ誠たちの専属で接客していたのだが……。
「……あの、鷹栖さん。そろそろペースを落としたほうがいいんじゃありませんか?」
兄たちが来店して二時間が経ったころ。思わず瑠依は悠成に声をかけた。彼はビールを手始めに、今ではウォッカをショットで飲んでいる。時間が経つにつれ、注文するのはどんどん度数の強い酒になっていた。
「それ以上飲むと、酔い潰れてしまいますよ」
「大丈夫だ。それなりに飲めるほうだし、店や誠に迷惑をかける飲み方はしない。……それに、なんだかここは落ち着く店だから、つい酒が進む。下手に構われたり、騒がしくないのもいい」
「ありがとうございます。店長が、そういうスタンスみたいなんです。だから、わた……僕にもバイトが務まるのかも」
この店で瑠依は、一人称を“僕”にしていた。昨日店に出る前、店長から言われたことである。『可愛いメイドが“僕”って言うのも、ギャップがあっていいでしょ』という店の主の独断により決定したのだが、まだ言い慣れていなかった。
一瞬ひやっとした瑠依だが、悠成は特に気にする様子もなく会話を続ける。
「ああ、そういえば君は臨時バイトだと言っていたな。ここに来るまで何をしていたんだ?」
「……就職活動に失敗して、派遣で働いてたんですけど……そこも最近切られたんです」
この程度の情報であれば、女だとバレる心配はないだろう。性別を偽る以外はあまり嘘をつきたくなかったし、悠成の事情を自分だけ知っているのも悪い気がしたのだ。
彼は「そうか」と言って視線を合わせると、「大変だったな」と、先ほどの瑠依と同じ言葉を口にした。
「俺は学生のころから、親が経営している会社に入ることが決められていた。就職で苦労をしたことがないから、安易なことは言えないが……君の経験は無駄ではないと思う」
「えっ……」
「就職で苦労したことも、この店で女装をしていることも、この先の人生で糧になるかもしれないということだ」
前向きな言葉だった。かなり飲んでいたし、明日にはこんな会話をしたことも忘れている可能性が高い。だが、瑠依は嬉しかった。“自分の経験を無駄にせず頑張れ”と、エールを送られた気分になったのだ。
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