書籍詳細
十五池純愛心中 いとしい君は眠りのままに僕を待つ
ISBNコード | 978-4-86669-116-9 |
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サイズ | 文庫本 |
定価 | 754円(税込) |
発売日 | 2018/06/05 |
レーベル | チュールキス |
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内容紹介
人物紹介
墨田真珠(すみだ まり)
侑木の秘書として働く。22歳。7歳から実家を離れて育つ。自分と対照的な侑木に惹かれる。
侑木慶佑(ゆうき けいすけ)
外資系企業「プリズン・ジャパン」の社長。野心的だが優しく、カリスマ的な明るさを持つ。
立ち読み
「——侑木さん、どこにいるんですか!」
小雨が降り始めた空の下、真珠は十五池に続く傾斜道を、急ぎ足で駆け上がっていた。大声で呼びかけたのは、この悪天候では、侑木がすでに池を離れている可能性もあるからだ。
理子との電話を切ってすぐに家を飛び出したが、彼の車らしきものは、家の周辺のどこにも見当たらなかった。けれどこの山にはいくらでも空き地がある。家の反対側から登ってきている可能性だってあるのだ。
彼の携帯は、一体いつから不通になっていたのだろう。あるいは十五池で足を滑らせて……。
「侑木さん!」
強風に抗うように、真珠は声を張り上げた。暗い山道を歩く怖さより、彼を失う恐怖と不安で胸が張り裂けそうだった。
——私のせいだ……。私が、あんなことを願ってしまったから。
彼と二人になったエレベーターで、刹那、自分の運命に彼を引きずり込んでしまいたいと強く願った。真珠が太陽になれない以上、侑木と結ばれるには、彼が自分のところにまで堕ちてくるのを待つしかない。ほんの一時、彼が何もかも失って、真珠だけが手を差し伸べる世界に堕ちてしまえばいいと思ったのだ。
それだけは、何があっても絶対に望んではいけないことだったのに——
涙が溢れそうになった時、ごうっと強風が吹き抜けた。顔に雨粒と木の葉がかかり、真珠は腕をかざして目を守る。顔を上げた時、目の前に、風でがたがたと揺れる黒い鉄柵が現れた。
「…………」
ここから先は呪われている——そう真珠に教えてくれたのは誰だったろう。だから今と同じように、あの夜も足がすくんだのだ。そして動けずに固まっていると、柵の向うから黒い影が近づいてきた。水を含んだ足音と共に。
再度吹き抜けた暴風が、真珠の上着を勢いよく舞い上げた。小さな悲鳴を上げて膝をついた真珠は、そのまま動けなくなっていた。周囲はすでに夜の暗さに覆われている。静まり返った暗い山道の向こうから、幻聴のようにあの足音が聞こえてくる。
ぬちゃ、ぬちゃ、ぬちゃ。
——いや……。
いや、こないで、こっちにこないで。見たくない、見たくない、考えたくない、見たくない。
柵の向こうに、ぬっと影が現れる。あの時と同じ真っ黒い人型の影。喉の奥に張りついた悲鳴が溢れそうになった時、その影が、いきなり人の顔を表した。
「真珠——? こんなところで、なにをやってるんだ」
頭を覆っていた黒のフードを外すと、下から侑木の驚いた顔が現れた。
雷に打たれたように固まっていた真珠は、放心したまま泥の中に座り込む。今見ているものが夢か現実か判らないでいる内に、鉄柵が開かれ、侑木が傍に駆け寄ってきた。
すぐにレインジャケットを脱いで、それを真珠の頭に被せてくれる。腕を掴まれて引き起こされた真珠は、ようやく正面から侑木の顔を見上げていた。
彼はグレーの長袖シャツを着て、黒のナイロン製パンツを履いていた。背中には小さなデイバッグを背負い、臙脂(えんじ)色のトレッキングシューズを履いている。
大きくなった雨粒が彼の髪や顔を濡らしている。真珠も侑木も、しばらく言葉が出てこなかった。やがて我に返ったように、侑木が自分の身体で真珠を雨から庇おうとした。
「——、とにかく君の家に戻ろう。このままじゃ風邪を引いてしまう」
「……なに、してたんですか、こんなところで」
「話なら後で聞くし、させてくれ。急ごう。服も靴も泥だらけだ」
侑木が肩を抱いて歩かせようとするので、真珠は身をよじるようにしてその腕から逃げた。
「一体なんなんですか、もうかかわらないって言ったくせに、こんな場所で一人で何をやってたんですか。こんな、——十五池みたいな危ない場所で!」
気を失うほどの安堵が、一転して強い憤りとして迸った。侑木には何度も警告したし、池の物理的な危険も説明した。なのにこんな天候の日に、彼は一人で十五池に出かけていたのだ。もしこれで、侑木に何かあったら、——もう自分は生きてはいられないだろう。
「今後一切、侑木さんの助けはいりません。理子さんとの代理人契約も解除します。もう二度と、私にもこの家にもかかわらないでください」
急に激しさを増した雨が、二人の顔や身体に降りかかる。しばらく黙って真珠を見つめていた侑木は、目に入った雨を手で払うと、その表情に穏やかさを戻して唇を開いた。
「ここへ来たのは、もしかして理子の差し金かな」
「——、そうです。理子さんが、侑木さんが十五池にいるんじゃないかって忠告してくれたんです。まさか、一人で水底をさらっていたんじゃないですよね?」
「いくら僕でも、そんな危ない真似はしないよ。——というより、理子は忠告したんじゃない。彼女は最初から、僕がここにいることを知っていたんだ」
——え……?
「ここは携帯電話の電波が通じない。だから万が一を考えて、電波の通じる場所で、理子に連絡する約束になっていた。もし四時までに僕からの電話がなければ、理子が救急隊に連絡をする手はずになっていたんだ」
そこで言葉を切り、侑木は唖然とする真珠を静かに見つめた。
「正直言えば、僕は今怒っている。君をこんな場所に来させた理子にもだが、それに迂闊に引っかかった君にもだ。でも、前向きに考えれば僕らは今日、二つの事実を学んだことになる」
「二つの、事実……?」
「判らないか? 君はあれほど恐れていた十五池に、しかもこれだけ天候の悪い中、一人で行こうとしていたんだ」
はっと息を引いた真珠を見つめ、侑木は微かに苦笑した。
「……それとも、今日のことも十五池の呪いかい? そうじゃない。君は理子に騙されただけで、お祖母さんもお母さんもきっとそうだ。何か理由があったから、十五池に行ったんだよ」
それは——侑木が知らないだけで、母に関してだけは、池に行った理由は判っている。
黙り込む真珠を優しい目で見てから、少しだけ表情を陰らせて侑木は続けた。
「もうひとつは、君が我を忘れて怒り出すほど、僕を心配してくれたことだ。……真珠、僕はまだ、君の愛を得る資格があると思ってもいいだろうか」
言葉を切った侑木はうつむき、顔から滴る雨を指で払った。
「君がどう思っているかは知らないが、僕の心はそこまで強くはなかったようだ。正直言えばこの一週間、……君を失うことを考えて、不安に思わなかった夜はない」
雨が激しく顔を打ち、真珠は何度も雨粒を避けるために瞬きをした。どう言っていいか判らなかった。こうして全てを告白してくれた侑木と向かい合っていると、もう自分には何も残っていないことが改めて思い知らされる。意地も虚勢も……もう、何も。
降りかかる雨を払うように顔を上げる。一歩足を踏み出した次の瞬間、真珠は無防備に立つ侑木の胸に飛び込んでいた。自分の行動に驚いたし、侑木もまた、一時、驚いたように立ちすくむ。けれど彼は、すぐに両腕を回して真珠の身体を抱きしめてくれた。
「ごめんなさい」
考えるより前に、震える唇から言葉が溢れた。
「ごめんなさい。私……、」
「いや、悪いのは僕の方なんだ」
真珠は、侑木の言葉を遮るように首を横に振った。そうじゃない。侑木さんは何も悪くない。
「……聞いてください。ホテルで凌士さんと会った時、私、思い出したことがあったんです。私が七つの時、ここで、この場所で実際に見たことです」
抱きしめてくれる彼の耳元で、真珠は囁くような声で続けた。
「侑木さん、私が以前話した、怖い夢の話を覚えてますか」
「……夢? 黒い人影が、闇の中から現れる夢のことかい?」
「あれは夢でなく、昔、現実に起きたことだったんです。私、……母が亡くなった夜、どういう理由か一人で十五池に行ったんです。でも……、柵の手前で動けなくなって」
自然に手足が震え出す。真珠は拳を握って冷静さを保とうとした。
「その時、池の方から下りてくる人を見たんです。丁度、母が死亡したとされている時間です」
侑木が何か言う前に胸がいっぱいになり、真珠は両手で顔を覆って、唇を震わせた。
「判らないんです。私、どうしてそんな大切なことを忘れていたのか! しかも、忘れているのはそれだけじゃないかもしれない。私……、私も、母や姉みたいに……」
思わずしゃがみ込んだ真珠の肩を、膝をついた侑木が抱いた。
「少し落ち着いて話してみてくれないか。それは君のお母さんが亡くなられた夜の話で、君はお母さんが亡くなられたとされた時間に、この道の向こうから下りてくる人を見たんだね?」
しばらくの間、固まっていた真珠は、石のように強張った首をわずかにうつむかせた。
「ずっと忘れていたと今言ったが、急に思い出したのは、どうしてだろう?」
侑木の声はどこまでも優しい。真珠は、引き結んだ唇をようやく解いた。
「どうしてというより……、そんな怖いことを、忘れてしまえるものなんでしょうか」
「怖い思い出ならなおさら、無意識に記憶から消してしまうのは、決して珍しいことではないよ。誰にだって消したい記憶はあるし、実際、消すことは可能だからね」
「……可能なんですか?」
「記憶を上書きしてしまえばいいんだよ。辛い記憶は幸福な記憶に、ネガティブな感情はポジティブなものに。僕はそうやって、ビジネスにマイナスな過去は全部書き換えてきた」
真珠は瞬きをして、侑木を見つめた。本当にそんなことが可能なのだろうか。普通の人には絶対無理だ。でも侑木なら、どんな不可能も可能にしてしまうような気がする。
侑木は、身体をかがめて真珠の顔を覗き込むようにした。
「それで、君が見た人というのは?」
真珠は再び唇を引き結んだ。言えば彼はどう思うだろう。心臓が重く締めつけられる。本当に私はこの忌まわしい記憶を、彼と共有していけるのだろうか。
「……お父さん」
数秒の間の後、侑木の目に、驚きと険しさが同時に浮かぶ。
「君のお父さん? それは、墨田巌さんのことか?」
(お、覚えておいででないなら申し上げます。あの夜、真珠様は、私にこうおっしゃいました)
(巌様です、真珠様はあの夜、巌様を見たと、はっきり私におっしゃられたのです!)
いきなりぼろぼろっと涙が溢れた。
「——ゆ、侑木さんが何を調べてくれても、だめなんです。じゅ、十五池の呪いは本当で、私たち家族は呪われているんです。だって、うちの家族は全員——全員……」
普通の幸福を得られない。父も、母も、血の繋がらないはずの姉でさえ。
「私、もう自分が判らない。覚えていることといないことがごっちゃになって、頭がおかしくなりそうです。私の頭、本当はもう随分前からおかしくなっていたのかもしれない。——」
「——真珠、」
「父だって、母と結婚さえしなければ、もっと幸福な人生を送っていたはずです。結局、うちの家にかかわった人は、みんな……みんな不幸になるんです……!」
ずっと怖くて認められなかったが、それが真珠の心の底にある本音だった。自分の家は、血は呪われている。それは縁を結んだ人に伝播する。だからこそ真珠はこの秘密を自分の胸一人に収め、誰とも繋がらずにこの世を去ってしまいたかったのだ。
気づけば広い胸に抱きしめられていた。真珠はその胸に顔を埋めて、思い切り泣いた。
侑木が、なだめるように背中を撫でてくれる。泣きじゃくりながら、真珠は彼の背中に両腕を回してしがみついた。
「……ゆ、侑木さんまで、不幸にしてしまったら、私、……どうしていいか判らない」
「大丈夫、絶対にそんなことにはならないよ」
「も、もしそんなことになったら、私、自分が許せない……。でも……、もう侑木さんと離れたくないんです……」
「僕もだ。これからはずっと一緒だ」
まるで十五年間我慢してきた感情がせきを切ったように、涙はいつまでも止まらなかった。
けれど、同時に胸につかえていた辛さや苦しさも流れていって、気持ちがどんどん楽になっていくのが判る。もう二度と彼と離れたくない。この人のいない人生など考えられない。……
「侑木さんが好きです」
彼の耳に懸命に唇を寄せ、喘ぐように真珠は続けた。
「私……侑木さんに嫌われるのが怖かったんです。本当の私を知ったら、きっと侑木さん、私のこと嫌いになる。でも……、私は、それでも侑木さんが好きなんです」
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