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溺愛ハラスメント

栢野すばる / 著
水野かがり / イラスト
定価 1,320円(税込)
発売日 2019/02/22

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内容紹介

王様御曹司の溺愛は犯罪レベル!?
若くして実家の小さな会社を継いで、多額の負債や苦しい運営に四苦八苦している神崎麻子。そんな中、身分差ゆえに突き放した元彼、大企業の御曹司である諫早雄一郎が3年ぶりに麻子のもとに現れた!? しかも「十億貯めて帰ってきた。この金でお前を助けてやる」って意味分かりませんが! とはいえそのおかげで会社の危機は脱出。その一方で雄一郎は3年間我慢してきた熱情を麻子にぶつけてきて——
「愛してる、麻子。俺を罵り、見下していいのはお前だけだ」俺様ならぬ王様御曹司は麻子が突き放せば突き放すほど燃え上がり、その執愛ぶりはもはやハラスメント級!?

立ち読み

   プロローグ

 神崎(かんざき)麻子(あさこ)は、仕事で疲れ果てた身体(からだ)を、自室のベッドに横たえていた。
 麻子は、若干二十五歳で貧乏な玩具(おもちゃ)販売会社の社長を務めている。
重い心臓病の母に代わって会社を引き継いだのだが、母の病は良くならず、会社の業績もどんどん悪くなる一方だ。
 今日も今日とて、色々なことに困っていた。
 取引先の横暴担当者のセクハラに、山積みの仕事。
 いずれも、大学卒業と同時に、右も左も分からないまま社長業をおしつけられた麻子の手にあまる。
 最近は母の体調が良くなくて、麻子の心労もピークに達していた。
 ――あれも、これも、全部今週中にやらなきゃな。
 やることリストを頭に思い浮かべ、ため息を吐く。
 昔から、気が小さいくせに、色々なことにやたらと気付いてしまう性質だった。
 父が早くに亡くなり、母が苦労していたせいで、空気を読む性格になってしまったのだろう。
 それに麻子は、『おとなしそうに見えるし、いい体をしている。それに目つきがエロくて俺を誘っていると思った』という理不尽極まりない理由で、これまでの人生において痴漢や変質者、ストーカーに追われまくってきた。だから、警戒心が人一倍強い。
 セクハラに遭(あ)いつつお金に苦労する人生なんて、我ながら最悪だと思う。
 だが、そういう星の下に生まれついてしまったようだ。
 ぱっとしない服装で無駄に育った胸を隠し、化粧も最低限にし、ひたすら地味に徹しているけれど、常に索敵(さくてき)モードMAXで生きているので、毎日疲れている。
 更に言うなら、どんなに地味にしていても、頻繁(ひんぱん)に気持ち悪い男に追い回されるのだ。
 もはやどうしていいのか分からない。
 ――あっ、そうだ……来月の商談会のための事前資料も作らなきゃ……。
 起きて仕事をしようと思うのに、今日はもう動く気力もない。
 こんな夜は、何故か楽しかった昔のことばかりが思い浮かぶ。
 例えば、人生の中で唯一輝いていた学生時代の思い出、とか……。
 ――元気かな、雄(ゆう)一郎(いちろう)……。
 麻子の思い出の中には、元恋人の姿がある。
 彼の名前は、諫早(いさはや)雄一郎。
 同い年で、高校に入ってすぐに知り合い、やたらと話しかけられるようになった。
 そしてしばらく経(た)った後、『神崎さんは通学中に変な男に会うのが嫌なんでしょ? じゃあ、俺が電車で送り迎えしてあげる』という申し出を受けた。
 あれが実質的な、麻子と雄一郎のなれそめだ。
 イケメンで周囲からの人望も厚い雄一郎が、何故必死に地味子に擬態して、痴漢やストーカーから遠ざかろうとしていた麻子にちょっかいを出してきたのかは、よく分からない。
 一つ分かったのは『雄一郎の趣味が変わっている』ということだけだ。
 だが雄一郎は、『ちょっと人とは違う』部分があるとはいえ、本当に一途(いちず)で、麻子には誠実な男だった。
 本当に自分で言い出した通り、毎日一緒に登下校してくれたのだ。
 普通の高校生男子はそこまでしない。やってくれたとしても最初の一週間くらいで飽きると思っていたのに。
 だが、雄一郎は違った。『俺は麻子が痴漢に遭うのは嫌だから』と、三年間、休まずに麻子を送り迎えしてくれたのだ。
『毎日律儀に駅まで迎えに来てくれなくていいのに』
 申し訳なくてそう告げた麻子に、雄一郎は言った。
『お前が痴漢に遭うよりいい』
『無理しなくていいよ。雄一郎だって、勉強とか忙しいんだし』
 そう答えつつも、麻子も本当は嬉しかった。
 毎朝駅に行くと、王子様のような美少年が微笑(ほほえ)みかけてくれる。朝っぱらから麻子に手を出してくる痴漢は、全部雄一郎が捕まえて、駅員に突き出してくれた。
 だから、死ぬほど嫌いだった電車通学も大丈夫になった。
 ただの女子高生に、あそこまで尽くしてくれる男の子は他にいないと思う。三年間、文字通り毎日、麻子の側(そば)で騎士のように守ってくれたのだから。
 送り迎えしてやると言われたときは『本気かな?』と思ったけれど、雄一郎の一途で嘘のない言動に、いつしか麻子の心も打ち解けた。
 学生時代、二人で登下校するときはいつも手を繋いで歩いた。幸せな時間だった。
 道を歩きながら他愛ない会話を交わし、公園で二人でジュースを飲んだり、お金があるときは、ファーストフードの店でおやつを食べたり……。
 特別なことは何もしない、平凡な高校生同士の交際だった。
 けれど、そんな風に雄一郎と一緒に過ごした記憶は、全部麻子の宝物だ。
 雄一郎といるだけで幸せで、毎日が甘い幸福に輝いて見えた。
 だから、雄一郎に釣り合うように、麻子も自分の中身を必死で磨いた。
 ずば抜けて優秀な雄一郎の側にいたくて、死に物狂いで勉強し、彼と同じ難関国立の、東都(とうと)大学にも合格できた。
 けれど、大学に入ってしばらく経つと、少し未来や現実が見え始めた。
 ――多分、大学を卒業したら、雄一郎と別れないといけないんだろうなって、分かっちゃったし……。
 麻子は傍らに置いた携帯を手にする。保存された写真を削除しようとし、今日も途中で手を止めた。
 映っているのは、大学を出てすぐの頃の麻子と雄一郎だ。
 二人で行った公園で、並んで撮った最後の写真。麻子は地味だが、雄一郎は別世界の王子様のように美しい。
 ――ホントに……黙っていればいい男。鳥肌立ちそう。
 麻子はため息を吐く。
 写真の中の雄一郎は、麻子と同じ二十三歳だ。
 光の加減で栗色に輝く髪に、滑らかな肌。切れ長の目は優美で自信に満ちている。
 出会った頃から背が高かった彼は、大学を卒業する頃には見違えるような逞(たくま)しい美青年に成長していた。
 ――何だかんだで、雄一郎以上にいい男って見たことない。
 麻子は天井を見上げたままため息を吐いた。
 あんなに純粋に麻子のためを思って行動してくれたのは雄一郎だけだ。
 高校三年間、本当に欠かさず電車で送り迎えしてくれた彼に対して、『男の子と付き合うのはまだ早い』と渋い顔だった母ですら、最後は泣いて感謝したほどなのだから。
 だが、二人の気持ちがどうであれ、雄一郎との恋に引導が渡される日が来た。
 学生の頃は『子供同士の恋愛ごっこ』で許された関係が、社会に出て名前が変わったからだ。『身分違いの恋』と。
 雄一郎は、地元一の名門『諫早家』の長男だった。
 諫早家は、日本でも指折りの商社『東尋(とうじん)貿易(ぼうえき)』を核とする、一大グループのオーナー一族だ。
 一方の麻子の家は、潰れかけの玩具販売会社である。
 父は早くに亡くなり、病弱な母がいったん社長業を継いだものの、その地位を大学を出たばかりの麻子に譲り、入退院を繰り返している。
 母は、麻子に『会社のことを気にせず、好きな人と幸せになって』と言ってくれるが、麻子は一応跡継ぎだ。
 古株である高齢の従業員を見捨てて、一人だけどこかに逃げることはできなかった。
 それにそもそも、雄一郎の実家が、麻子など認めてくれなかった。
 雄一郎は親を説得すると息巻いていたが、やめてもらった。
 父の遺(のこ)した会社は守らねばならないし、無理やり結婚しても、その先は誰からも祝福されない茨(いばら)の道だ。
 何をどうしたところで、名家の御曹司(おんぞうし)である雄一郎との交際は、終わりにせねばならない状況だったのだ。
 ――私って、結構未練がましいな……。私と居たら雄一郎が『本気で何をするか分からない』でしょ。だから、アレで良かったのよ。東尋貿易の御曹司に危ない真似をさせるなんて。
 ほろ苦い想いで麻子は口の端を吊り上げた。明日は朝イチから会議だ。
 果たして来年まで、麻子が父から継いだ小さな玩具販売会社は存在しているのだろうか。
 ――うっ、胃が痛い。
 麻子はベッドから跳ね起き、いつもの胃薬を流し込む。
 恋もない、趣味もない、お金もない。責任と仕事だけは山積みだ。
 本当に何の展望もなくて、気分が晴れる日が全くない。
 せめて病弱な母だけは、屋根のある場所で守らなければ。
 ――私の人生、よく分からない苦労が多すぎかも。
 麻子は、部屋に置かれた古い鏡を覗き込む。まっすぐな長い黒髪に、黒目がちの大きな目。大好きだった父によく似た顔だ。クールだの喜怒哀楽が薄いだの言われるけれど……苦労しすぎたせいだ。心の中では色々思うところがある。
 ――ねえお父さん、私、お父さんの会社を何とか守りたいの。だから力を貸してね。従業員の人たち、あの歳じゃ再就職も厳しいから……何とか皆が定年になるまでは。
 胸に手を置き、麻子は目を瞑(つむ)って、天国の父に語りかけた。もちろん返事はない。
 麻子はもう一度携帯を手に取り、雄一郎の画像を眺めた。
 何故か今日は、やたらと雄一郎のことを思い出す。
 ――貴方(あなた)が御曹司じゃなきゃ良かったのに。第一、どうして御曹司様が名門私立じゃなくて公立高校に入学したの? うちの高校になんか来るから……出会っちゃったのよ。
 社会に出て『神崎玩具販売』の社長を任されたころから、雄一郎の『恋人』である麻子への風当たりが、とても強くなった。
 新卒のひよこ社長である麻子のもとに、様々な投書がされるようになったのだ。
『雄一郎さんに付きまとう邪魔な女がいると聞いたんですが、別れてください』と書かれた差出人のない手紙。
それに、夜道で麻子を待ち伏せし、『君は諫早家の財産狙いの女なんだろう? 高校時代からつきまとっていたと興信所の人間に聞いた。今も別れたがっている雄一郎さんに泣いて縋って、別れないよう迫っているそうだな? 恥ずかしくないのか』と詰め寄ってきた、知らない中年男性もいた。おそらく彼は、雄一郎の親戚に雇われた何でも屋かなにかだろう。
 彼を取り巻く人々から幾度もぶつけられた不快な言葉を思い出し、麻子は手の甲で目を覆った。
 ――到底信じられないでしょうけど、私じゃないのよ、付きまとった方は……!
 複雑な思いだ。
 麻子が泣いて縋って雄一郎に付きまとっていたと思われるなんて。事実は違うのに。
 だが、周囲から見たら、そう思われるのも無理はない。
 名家の御曹司である美青年が、大人しくて真面目なだけの貧乏女と付き合い続ける理由なんて特にないはずだからだ。
 ――ほんと、私が悪者、御曹司様のストーカーみたいな扱いだったもんね。
 思い出すだけで気が滅入る。雄一郎の親戚だかとりまきだか……よく分からない人たちが何度も家に来て、わきまえろ、別れろと脅されて。
 更には、会社を継いで二ヶ月目くらいの、仕事に慣れなくて忙しい麻子の前に『雄一郎の婚約者候補』まで現れたのだ。
 彼女の名前は、鮎(あゆ)原瑞穂(はらみずほ)。
 この辺では名の知れた旧家のお嬢様で、実家はいくつかのホテルやレストラン、量販店などを経営している。
 鮎原家は、東尋貿易とも取引があるらしい。
 彼女は、立て続く嫌がらせや、待ち構えている謎の人間たちに疲れ切っていた麻子に、高飛車にこう言い捨てた。
『私は雄一郎さんの婚約者になりたいんです。だけど、貴女(あなた)がいる限り、あの人はお見合いすらしてくれないの。だから、貴女に身を引いてほしい。言うことを聞いてくれれば、私の実家でお宅の商品を扱ってあげてもいいです』
 当時の麻子の会社は、今よりもっと困窮していた。
 だから、会社のために、その提案に乗らざるを得なかった……。
 どのみち、雄一郎は一緒にはなれない相手だ。これを機に会社を建て直すしかない。あのときは、そうとしか考えられなかった。
 だから雄一郎に告げたのだ。
『家の事情で貴方に迷惑を掛けたくないから、もう別れたい』と。
 その言葉に、雄一郎は形の良い眉をひそめて、苦しげにこう答えた。
『別れない」
 薄々『うん』と言ってくれないことは察していた。
 雄一郎は麻子のことを諦めないのだ。
 何があっても絶対に引かない。麻子に食らいついて離れない。
 雄一郎は、精悍(せいかん)で上品な美貌の裏に、激しい執着心を秘めている。
 あの執着心がなければ『自分の彼女を、テストの前も雨の日も雪の日も、三年間欠かさず送り迎えする』など不可能だ。
 雄一郎の長所は、彼の持つ特異性と表裏一体の関係にあるものだった。
『人は見かけによらない』とは雄一郎のためにあるような言葉だと、麻子は常々思ってきた。
「本当に迷惑掛けたくないから。申し訳ないと思いながら付き合うのも、心労が半端ないの……私、もう、家のことでいっぱいいっぱいで、ごめんなさい」
 これは長期戦になるな、と思いながら、麻子はか細い声で言った。
「俺は、誰に何を言われても、全く迷惑じゃない。有象無象(うぞうむぞう)の意見に耳を貸そうと思ったことはない。麻子も知っての通りだ」
「だから、そうじゃなくて! 本当に迷惑が掛かっちゃうの……貴方、頭いいんだから分かるでしょう? うちの会社、本当にお金なくて、ごめん……なさい……」
「理解は出来るし、状況も把握している。だが受け入れない。別れない」
 五時間にわたる『別れる』『別れない』の応酬(おうしゅう)の末、貧血で座り込んだ麻子を介抱しながら雄一郎は言った。
「じゃあ、俺も少しだけ妥協する。時間は掛かるが、諸々全てをどうにか出来る現金を作って帰ってくる。だから麻子は、他の男と会話以上のことをせず、俺を信じて待っていてくれ。例外として男性医師の診察は許す」
 突然斜め上の答えを返され、麻子は目を点にして「あ、うん、いや、そうじゃなくて別れようね……」と答えたような気がする。
 解決なんてできないのに。
 お互い生まれ変わって、別の人間にでもならない限りは。
 東尋貿易の後継者と、いつどこで潰れるか分からない零細(れいさい)企業(きぎょう)の社長もどき。二人の道が重なり合う日はもう来ないのだ。
「じゃあ、元気でね、さよなら」
「さよならじゃない。俺は麻子のところに帰ってくる」
 雄一郎の歪んだ顔が、今でも目に焼き付いている。
 彼を深く傷つけたあの時が、人生で一番胸が痛かった。
 だけど、平気な顔が出来た。本当に心が痛いときは、笑顔になるのだなと思った。
「会いに来たって、会わないから。貴方からの、電話も取らない……から……」
 雄一郎とは、あの日から逢っていない。彼からの連絡もなかった。
 多分あの後、雄一郎も目が覚めたのだろう。
 恋愛と結婚は別物だ、と理解したに違いない。
 麻子はその日から『雄一郎様の婚約者』である瑞穂に命綱を握られて、馬車馬のように働き続けている。
 ――中途半端な別れ方をしたから良くなかったんだろうな。今も、あの人に未練があるのはそのせいだ。
 力強い笑い声も透き通るような微笑みも、映画俳優も顔負けの美貌も、大きな温かい手も、麻子を優しく組み敷いた逞しい身体も、全部忘れられない。
 麻子にとっては、彼だけが、思っていることを全部言える相手だった。
 相性が良かったのだろう、とても。あれ以上一緒にいたら危なかった。そうでなくても、心身共にべったりくっつき合って、離れられなくなっていたから。
 ――忘れたい。忘れよう。私はもう、忘れた……!
 初恋なんて早く忘れてしまいたいと思いつつ、麻子はぼんやりと目を閉じた。
 雄一郎が目の前に現れて『本当に迎えに来たぞ』と言ってくれる。
 そんな妄想を何度したことだろう。
 だがそれは、あり得ないことだ。雄一郎とは、もう三年も会っていない。その間に携帯電話を替え、メールアドレスも変更して、連絡は取れない状態になった。
 彼が麻子の前に現れることなんて、きっとない。
 でも、それでいいのだ。
 麻子の側にいたら、雄一郎は何をしでかすか分からないから。
 ――会いたいなんて……思わないわ。お互いのためにその方がいい。
 奇跡は起きないと知っている。
 だから麻子は、ぼんやりと写真を眺め、過去の恋を反芻(はんすう)しているだけだ。
 ――あんなに人を傷つけたのは、人生で一度きりだなぁ……。
 別れを告げたときの雄一郎の目が、やはりどうしても忘れられない。
 いい加減、初恋の元カレなんてすっきり忘れたいと思いながら、麻子は掌で目を覆った。何故自分は涙を流しているのだろうと思いながら。



   第一章 王様リターンズ。

 麻子の朝は、たいていトラブルから始まる。
 別に望んでトラブルから始めているわけではないのだが、最近多すぎる。
 会社が上手くいっていないうえ、従業員が人のいいおじいさんばかりだと、どうしても、こう、無理難題が持ち込まれがちなのだ。
「鮎原デパートから、注文しすぎたって突っ返されちゃって……」
「えっ、それ鮎原デパートの専売品なのに。困ったな」
 麻子はリストを一瞥(いちべつ)し、眉をひそめる。
 鮎原デパートは、『雄一郎から離れる代わり』に、麻子の会社の商品を少量ではあるが扱ってくれることになった、瑞穂の父の会社だ。
 麻子の会社……神崎玩具販売が絶対に強く出られないのをいいことに、時々とんでもないミスを押し付けてくる。
『鮎原デパート限定色』と書かれたウマの人形を思い浮かべ、麻子はこめかみを押さえた。
 頭が痛い。
 これは、麻子の会社で一番売れている商品だ。
 社長だった母が倒れる前から交渉を重ね、ようやくライセンス契約に結びつけた北欧の玩具ブランドの特注品である。
 限定色は、メーカーに特別ロットで作ってもらうので、他の色よりも原価が高い。
 ――だから何回も確認したのに! こんなに数が必要なんですか、って。
 怒りに拳を握りつつ、困り果てた顔の事務員さんに麻子は微笑みかけた。
「とりあえず、追加納品させてもらえないか交渉しますね」
 鮎原デパートは、本気で麻子を軽んじている。
 経営者のお嬢様が麻子に対して無礼な言動を繰り返し、担当者との交渉の場にまでやってきて麻子を侮辱したせいか、最近は担当者まで麻子を軽んじるようになった。
 ミスなんて出入りの零細企業に押し付ければいい。そんな態度が垣間見える。
『うちはいつお宅を切ってもいいんだけど。なんなら俺とHしてくれる? そのエロいおっぱい揉ませてくれたらちょっとは考えてもいいよ』
 セクハラで訴えますよ、と言っても、相手はやめない。
『お宅がトラブルを起こしたって俺が言えば、取引なんて即停止に出来るんだからな』
 電話口で喚(わめ)き散らされて、何度心折れたことだろう。
 この担当者……風間(かざま)は、鮎原デパートのコネ採用者で、他でも問題を起こしているけれど、絶対にクビにならないらしい。
 そもそも電話口で、取引先の女性社員に対して『Hさせろ』なんて口走っている同僚を誰も止めないのだ。
 そういう風土の職場なのだろう。自浄作用は見込めない。
 ――私の周囲、変な人が集まりすぎ……。あとこの風間って担当者、既婚者のくせに気持ち悪すぎる!
 吐き捨てるような言葉にももう慣れたが、ストレスがたまる一方だ。
 ――とにかく、あれは鮎原デパートさんの限定色だから、うちが独自にネットで売るわけにもいかないし。いや、ここはごり押しで『通販でも扱いを開始しました!』って売らせてもらうしかない。この在庫抱えたら、完全に足が出る。
「とりあえず、今日は鮎原デパートの担当者さんが不在なので、月曜に調整しま……あっ」
 電話が叩き切られてしまった。麻子はため息をついて、一度事務室を出た。
 ――顔洗ってこよう。頭、冷やそう……。
 そのまま、女子トイレに向かった。
 麻子はすっぴん同然の顔で会社に来ている。
 昔から化粧気なしだ。何もしなくても変わらない顔だと言われる。
 長い髪は一つにひっつめ、高校の頃から愛用している伊達(だて)眼鏡(めがね)を装着しているだけだ。
 口にも目にも頬にも一切色はのせていない。
 誰から見ても、胸回りだけあるモッサリした顔色の悪い女にしか見えない。
『他の男と会話以上のことをせず俺を待っていろ』
 雄一郎の言葉を思い出し、麻子は目を瞑って、彼の思い出を頭の片隅に押しやる。
 ――べ、別に、雄一郎に義理立てしてるわけじゃないんだから。
 古びた洗面台でバシャバシャと顔を洗い、家から持参しているタオルで顔を拭って、前髪を留めていたピンを外す。
 ――よし、今日も無茶ぶりやゴリ押しと戦うぞ……。
 全く盛り上がらない。テンション最悪なまま、麻子は鏡の向こうの自分に向けて、気合いを入れる。そうやって、気の重い交渉を覚悟したときだった。
「社長さん!」
 父が存命の頃から勤めてくれている専務の中山(なかやま)が、事務室に駆け込んできた。
 祖父、父、母、麻子と、四代の社長を知っている中山は、この会社の生き字引だ。
「あ、あの、お客さんが来て、俳優さんかと思ったけど、あの」
 中山も相当疲れているようだ。俳優など玩具会社に来るわけがない。
「どうしたんですか、中山さん……」
 普段落ち着いた白髪の紳士が、いつになく焦っている。
 またもや問題が起きたのかと思った刹那(せつな)、胃が痛くなった。神経性の胃痛だ。
「お客さんの予定はなかったと思いますけど……どなたでしょうか?」
「えっと、あっ、いただいた名刺置いてきちゃった! うちの会社のことで話があるって。そうそう、東尋貿易の名刺頂きましたよ?」
 東尋貿易は、雄一郎の実家の会社だ。日本でも指折りの商社で、麻子の『神崎玩具販売』とは縁のない超一流企業である。
 ――どういうことかしら……うちの資本金じゃ、東尋貿易と取引なんて出来ないのに。
 頭から湯気が出るほど動揺している中山に休んでいるように言い、麻子は応接室へ向かった。
 ふと、懐かしい香りが漂った気がする。強(こわ)ばっていた身体が一瞬和らいだ。
 ――あれ、どこで嗅いだのかな、この匂い。
 何故懐かしく感じたのだろう。不思議に思いつつ、麻子は応接室の扉をノックする。
「失礼します」
 扉を開けた麻子の目に、スーツ姿の男の姿が飛び込んできた。
 ひと言で言えば、男らしく、光り輝くように華やかな印象の男だ。
 光の加減で栗色に見える艶(つや)やかな髪を撫でつけ、引き締まった見事な体躯(たいく)を上質なスーツに包んだ姿は、映画のスクリーンから抜け出してきたかのように美しい。
 こんな男が歩いていたら、誰もが足を止めて振り返るに違いない。
 王者のようなオーラが、彼の全身を包んでいるのが分かる。
 その男の姿を見た瞬間、麻子はかすかに口を開けた。
「雄……一郎……」
 記憶よりもはるかに男らしさを増した雄一郎の姿がそこにはあった。
 なるほど、中山が動転するのも無理はない。突然こんな華やかな美青年が超一流企業の名刺を持って訪れてきたら、いったい何事だと思うだろう。
 優雅な仕草で立ち上がった雄一郎が、麻子に向かって片手を差し出す。
「久しぶり、麻子」
「え、ええ……お久しぶり……です……諫早さん……」
 大きな掌の感触に、一瞬だけ身体が震える。意外と忘れないものだ、好きだった男の手触りは。
「あの、今日はどのようなご用件で」
 何故か握手のあと、手を離してもらえない。ぎゅっと手を握られたまま、戸惑いつつ麻子は尋ねた。
「十億貯めて帰ってきた」
「えっ、何の話でしょうか……?」
 聞き間違い……だろうか。話についていけず、麻子は反射的に尋ね返す。
 やや色の薄い瞳で麻子を見据え、雄一郎が繰り返す。
「あの日の約束通り、アメリカで鬼のように働いて、個人財産を十億貯めてきた。新卒のガキがここまで来るのに、どれだけ苦労したと思う?」
「え、と、約束なんて……しましたか?」
 本気で覚えがなく、麻子は小声で問い返す。
「したはずだ」
 低く艶のある声で、雄一郎が断言した。
 だが、やはり何のことか分からない。というか、そんな約束をした覚えは全くない。
 落ち着かなくてそわそわしてきた。
 何か言わなければ。何かを……雄一郎の榛(はしばみ)色(いろ)の瞳に見据えられているうちに、どくん、どくんと心臓の鼓動が早くなる。まるで、まなざしに射貫かれ、せき立てられているかのようだ。
 覚えている。彼のこの視線は毎度麻子を狂わせてきた。抵抗しても、最後には毎回屈服してしまう。麻子はぎゅっと目を瞑り、ゆっくりと口を開いた。
「忘れたわ」
 自分の声とも思えない、冷淡かつ見下すような声音だった。
 ――わぁぁ……また、やってしまった……!
 頭を抱え込みたくなる。
 自分の口から出た台詞(せりふ)におろおろしながら、麻子は体勢を立て直すために背筋を伸ばす。
 ――ち、違う……もっとまともに社会人らしく! 常識の範囲内で『申し訳ないですがお引き取りください』と言わねば!
 麻子は意を決して慎重に口を開いた。
「貴方なんて呼んでないわ。帰りなさい」
 ――違うから! 全然違うから! どうしてこうなるの!
 気付けば、麻子はまたしても雄一郎に呆(あき)れ果てたような口調で、ひどい言葉を投げかけていた。本音だとしても、こんな台詞を普通の人は言わない。麻子も、通常は、言わない……雄一郎の前以外では。
 ――い、いけない、元カレとはいえ、今は東尋貿易の重役……なのよね? 確か。我慢しなきゃ、我慢を……!
 慌てて口をつぐんだ麻子に、不意に雄一郎が微笑みかけた。
 どくん、と心臓が高鳴る。規格外イケメンの突然の笑顔なんて反則すぎる、と思った。
「あいかわらず、最高の切れ味だ」
 雄一郎が、麻子の手を掴んだままの指先に力を込める。
「俺は麻子の冷たい声と、蔑(さげす)むような視線が忘れられなかった」
 榛色の瞳に蕩(とろ)けるような光を浮かべ、雄一郎が微笑んだ。
 最高に気持ちよさそうだ。
 そう、彼は出会ったときからちょっと人とは違う男だった。
 彼は麻子が知る限り、非常に限定的な意味で『史上最強のどM』なのだ。気に入った女、つまり麻子を自分の女王様に据え、いじめられるのが最高の幸せらしい。
 だから麻子がひどい言葉を投げつけるほど、嬉しそうな顔をする。
 ――だからといって、元カレを喜ばせる義理など私にはないわ。
 麻子は、雄一郎から顔を背け、歯を食いしばった。雄一郎の目を見ては駄目だ。彼のきらめく双眸(そうぼう)に見つめられると麻子の頭がおかしくなる。
 謎のスイッチが入って、雄一郎を罵(ののし)るために口が勝手に動いてしまうのだ。
 ――何なの……相変わらずの意味不明なパワーが溢れる目……ホントに、何なの……!
 雄一郎に流されないよう、麻子は拳を握りしめた。
「気持ち悪い人」
 再び、自分の口から正直かつ、とんでもない台詞が出てくる。
 何故、雄一郎の力に溢れたまなざしに晒されると、こんな風になってしまうのだろう。
 ――ま、待って、五秒考えてから喋(しゃべ)ろう。私……どうしよう、これじゃ、付き合っていた頃の二の舞だから。
 麻子の鼓動がますます速まった。
 落ち着きを失った麻子に、雄一郎の視線が注がれる。
 刃物のような鋭さと、砂糖のような甘さの両方を兼ね備えたまなざしだ。
 やはり、彼以上に美しく自信に満ちあふれた男は見たことがない。
 ――駄目……雄一郎に取り込まれちゃ駄目……!
「気持ち悪い……か、ははっ……たまらないな、他には?」
 五秒我慢して、麻子は口を開いた。
「ないのでお引き取りください」
 三年という時間をおいても、何の効果もなかったようだ。昔同様におかしくなる。
 冷淡な気持ちがすーっと湧いてきて、ひどい言葉があっさり口から出てくる。
 そして、麻子自身も、雄一郎に言いたい放題できることに、かすかな快感を覚えているのだ。あまり認めたくはないけれど。
「本当は俺と居たいくせに。だが若干本気っぽいところがたまらないな。それで?」
 雄一郎の言葉を聞いた瞬間、唐突に彼との会話がどうでもよくなり、コーヒーを買いに行きたくなった。
 雄一郎のお望み通り、放置してあげたい。……いや、何故彼を放置することを『お望み通り』だと思うのだろうか。もう駄目だ。完全に雄一郎の術中に嵌(は)まってきた気がする。
「相変わらず、独りよがりがすごいのね」
 ――やはり、黙れません。はい。昔と同じです……。
 麻子の全身から変な汗が噴き出す。
 断じて言うが、他の人にはこんな口を利いたことはないのだ、ただの一度も。こんな風に冷たい気持ちになることもない。
 ――どうしてこうなるの、雄一郎の謎のオーラかフェロモンか、とにかく何かが私をおかしく……っ……!
 麻子が唇を噛んだ刹那、雄一郎の腕が、麻子の身体をぐいと抱きしめた。
 驚きのあまり息が止まりそうになる。
 三年ぶりの抱擁(ほうよう)に、頭の中は真っ白になった。
 力強い腕に厚い胸。
 百六十センチの麻子より二十センチ高い位置から、雄一郎が甘い声で囁(ささや)いた。
「その罵り言葉を聞くために十億稼いだんだ。ただいま、麻子。俺をこれからも優しく罵ってくれ、その綺麗(きれい)な声で」


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